ウォーレン・クロマティは、日本プロ野球史に残る伝説の外国人選手です。
独特のクラウチング打撃フォームで観客を魅了し、1980年代後半の巨人軍を牽引した強打者でした。
メジャーリーグ通算打率.281、日本では.321の驚異的な成績を残し、1989年にMVPを獲得します。
宮下昌己との乱闘事件や、王貞治監督への敬意、そして1990年の劇的な敬遠サヨナラ二塁打など、彼の活躍は日本野球に深い爪痕を残しました。個性的な選手でありながら、チームへの献身と打撃の鋭さで日本のファンの心を掴んだ。
項目 | 詳細 |
---|---|
名前 | ウォーレン・リビングストン・クロマティ |
生年月日 | 1953年9月29日 |
出身地 | アメリカ合衆国 フロリダ州マイアミビーチ |
身長 | 183cm |
体重 | 87kg |
投/打 | 左投左打 |
背番号 | 49番 |
メジャーリーグ | モントリオール・エクスポズ(1974-1983) |
日本プロ野球 | 読売ジャイアンツ(1984-1990) |
通算成績(MLB) | 1107試合、1104安打、打率.281、61本塁打、391打点、50盗塁 |
通算成績(NPB) | 779試合、951安打、打率.321、171本塁打、558打点、26盗塁 |
主な受賞 | 日本プロ野球 首位打者1回、MVP1回、ベストナイン3回 |
クロマティのメジャーの現役の成績?メジャーは?構え?名球会やタイトル・背番号・

クロマティの背番号は?
クロマティの背番号は49です。
クロマティの現役時代の構え
クロマティの打撃フォームですが なぜ、頭が「低い位置」にありました。ただ、外角低めを打ちやすくするために、体への負担も大きいので末期は普通なフォームに戻しました
クラウチングスタイルという打撃フォームというそうです。
クロマティのメジャーの成績
80年代、外国人選手の日本移籍は極めて稀な出来事でした。
当時のメジャーリーグで安定した成績を持つクロマティが日本プロ野球に挑戦することは、野球界に大きな衝撃を与えました。ちなみに、MLB(実働10年)で、1104安打61本塁打391打点、打率 .281です。メジャーで通算1000試合、1000本安打をクリアしています。
カテゴリ | 数値 | 備考 |
---|---|---|
通算試合数 | 1,107試合 | 10シーズン以上 |
打率 | .281 | リーグ平均並み |
本塁打 | 61本 | 年平均6本 |
打点 | 391打点 | 年平均39打点 |
盗塁 | 50盗塁 | スピード重視 |
出塁率 | .336 | リーグ平均的 |
OPS | .739 | 平均的な数値 |
クロマティは単なる助っ人ではなく、チームに多大な影響を与えた稀有な存在でした。成功の鍵は、高い適応力、チームへの献身的な姿勢、日本の野球文化への深い理解、そして積極的な言語習得にありました。
当時と比べ、選手の国際的な移動環境が大きく変化しており、クロマティのような挑戦は現在では非常に珍しくなっています。
、1974年プロ入りしてほどなくモントリオール・エクスポズに昇格。1975年いったんマイナーに降格した後1976年に再昇格。1983年まで同球団に在籍していました。
1977年から1983年までは外野手兼一塁手としてずっとレギュラーでした。
カテゴリ | 1980年代 | 現代 | 変化の要因 |
---|---|---|---|
経済的インセンティブ | 低い | 非常に高い | メジャーリーグの市場拡大 |
給与水準 | 低水準 | 高水準 | テレビ放映権、スポンサー増加 |
NPB海外選手制限 | 緩い | 厳しい | リーグ保護政策の強化 |
メジャーリーグの魅力 | 限定的 | 最高峰 | グローバル化、キャリアパス |
メジャー監督就任当時のディック・ウィリアムスやチームスターのアンドレ・ドーソンなどにもかわいがられ、チームの中ではかなり重宝されていたようです。
クロマティは天才だった構え
1984年巨人で一緒だったレジー・スミスは「クロマティは自分のと同じぐらいトレーニングしていたらMLBでもスターだったろう」とクロマティについて語っていました。
クロマティは遊んでいるような明るい雰囲気が似合っていますよね。
クロマティの成績は?敬遠ホームラン
7年間稼働の打率321ホームラン171打点558です。巨人歴代最大の助っ人といわれるだけありますね。プロ野球での通算打率「.321」(2961打数)を記録する「ヒット量産型」の選手だったのです!クロマティはホームランもプロ3年目(1986年)に「37本」を記録しているので、長打力も備えている打者でした。
バリバリのメジャーリーガですね。
また、珍記録としては敬遠ホームランをうっています。下記が動画です。
タイトルや日本での成績
賞 | 回数 | 年 | 備考 |
---|---|---|---|
首位打者 | 1回 | 1989年 | 打率.378 |
最高出塁率 | 1回 | 1989年 | 出塁率.449 |
最多安打 | 1回 | 1989年 | ※1994年より公式表彰 |
最多勝利打点 | 2回 | 1984年、1986年 | チームに大きく貢献 |
ホームランは171本であり、1104本安打でした。名球会には入れませんでした。
クロマティの打率は?

クロマティの日本での打率は非常に優れており、通算打率.321と驚異的な成績を残しました。
1989年、クロマティは驚異的な打撃成績で日本プロ野球を震撼させました。
シーズン序盤から圧倒的な打撃を見せ、5月18日時点では打率**.470という驚くべき数字を記録します。
6月25日の58試合目には打率.396に下がるも、8月9日には再び4割台を回復。8月20日には打率.401**を記録し、96試合目まで4割台をキープする日本記録を打ち立てました。
特筆すべき成績として、規定打席(403打席)到達時点でも4割を超える驚異的な打撃力を示しました。
出塁率**.449**はリーグ最高で、本塁打15本、打点72と攻撃の要として機能。さらに日本シリーズでもチームに大きく貢献し、首位打者とMVPを獲得。この年、クロマティは日本プロ野球史に永遠に刻まれる伝説的なシーズンを築き上げたのです。
藤田元司から欠場を提案されるが、クロマティは「出ます」とはっきり拒否します。
理由は下記のコメントです。
監督から休養を提案されるも、出場を続け、最終的に打率は**.378**に下がりましたが、4割打者への夢は印象的な挑戦となりました。
年 | 打率 | 備考 |
---|---|---|
1984年 | .280 | 来日初年度 |
1985年 | .309 | 安定期に入る |
1986年 | .363 | 打撃好調 |
1987年 | .300 | 乱闘事件の年 |
1988年 | .333 | 打率回復 |
1989年 | .378 | 首位打者、MVP受賞 |
1990年 | .293 | 最終年 |
クロマティは巨人軍の「歴代最強の助っ人」と呼ばれ、その打撃力で日本プロ野球に大きな衝撃を与えました。
クロマティの伝説的な乱闘と和解の逸話エピソードや右ストレートなど

宮下昌己投手との和解
1987年6月11日、熊本・藤崎台球場での中日戦で、宮下昌己投手から背中に死球を受けたクロマティは激高し、マウンドに殴り込み、宮下に顔面を狙って右ストレートを浴びせた。この出来事は両軍の大乱闘につながり、王貞治監督も興奮状態で参戦するという伝説的な場面となった。
クロマティと宮下昌己は、乱闘事件から四半世紀以上経った後に和解を果たしました。具体的には、2013年1月21日に日本テレビ系の番組「深イイ話&しゃべくり007 合体2時間SP」で再会し、お互いに笑顔で握手を交わしました。
年月日 | 出来事 | 詳細 |
---|---|---|
1987年6月11日 | 死球乱闘事件 | 熊本・藤崎台球場で発生 |
1987年〜2007年 | 関係断絶期 | 数回会う機会はあるが会話なし |
2007年6月17日 | 偶然の再会 | プロレス興行『ハッスル』で再会 |
2013年1月21日 | 正式な和解 | テレビ番組「深イイ話&しゃべくり007」で握手 |
クロマティは番組内で「トモダチでしょ!」と発言し、人懐っこい笑顔で宮下と和解。その後も2015年のテレビ番組や2020年のクロマティチャンネルで共演するなど、良好な関係を築いています
クロマティがもっとも印象に残ったエピソードは?
クロマティが日本で最も印象に残ったエピソードは、1986年10月2日の神宮球場でのヤクルト戦における頭部死球からのサヨナラ満塁ホームランです。
クロマティ自身が「あれは俺にとっても、一番思い出に残る試合だね。あれですべてが変わった」と語っています。この試合では、頭部に死球を受けて病院に搬送された翌日、代打で満塁ホームランを放ち、日本のファン、選手、メディアの印象を一変させました。
段階 | 詳細 | 状況 |
---|---|---|
死球 | 頭部に死球を受ける | 緊急搬送、ストレッチャーで病院へ |
球団対応 | 「家で静養するように」と指示 | 出場を制限 |
選手の決意 | 王貞治監督に出場を懇願 | 監督の了承を得る |
劇的な結末 | 代打で満塁ホームラン | チームを勝利に導く |
クロマティは「あの瞬間、あの夜、日本のすべてのファン、選手、メディアが俺についての印象を変えた」と振り返り、この出来事が自身の日本での野球人生における転機となったことを強調しています。
そのほかの逸話
カテゴリ | 詳細 |
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感情的なエピソード | – 敗戦に怒って、クラブハウスのフードテーブルをひっくり返した |
– 試合後も怒りが収まらず、「巨人の宿舎はどこだ!」と言い、乗り込もうとするほどの闘志 | |
打撃の特徴 | – 来日1年目から35本塁打を記録 |
– 1989年には打率.378という驚異的な成績、「4割バッターに迫る」存在 | |
人間性 | – チームメイトを思う仲間思いな一面 |
– 日本への愛が深く、「日本を元気にしたい」と常に考えていた | |
興味深いエピソード | – 好きな日本食:うなぎ、ラーメン、焼き鳥 |
– 納豆は苦手 |
クロマティの敬遠サヨナラホームラン
1990年6月2日、巨人対広島戦で、延長9回裏、同点1-1の場面でクロマティは劇的な敬遠球サヨナラヒットを放ちました。
項目 | 詳細 |
---|---|
日付 | 1990年6月2日 |
試合 | 巨人 vs 広島東洋カープ |
イニング | 延長9回裏 |
得点状況 | 同点1-1 |
走者状況 | 二死二塁 |
打者 | クロマティ |
投手 | 金石昭人 |
戦術 | カープバッテリーによる敬遠作戦 |
クロマティの対応 | 初球の外角高めのボール球を狙い撃ち |
結果 | 右中間を破るサヨナラ二塁打 |
試合結果 | 巨人の劇的な勝利 |
クロマティは1ストライク1ボールのカウントから、見事な打球判断で試合を制しました。この瞬間は、彼の日本プロ野球での印象的な活躍の一つとして記憶されています。
クロマティは、この年が巨人最終年であり、「記憶に残るプレー」を続けた選手として知られています。
彼の活躍は、「巨人軍史上最強助っ人」と呼ばれる理由の一つとなっています。興味深いエピソードとして、クロマティは前日に神宮球場でデッドボールを受けた翌日にこのサヨナラホームランを打っており、ファンに感動を与えました
ただ、バースのほうが凄かったけどクロマティもかなり凄かったです。これは巨人ファンでもみとめるでしょうね。
クロマティと暴露本さらばサムライ野球
クロマティチャンネルで当時監督だった王貞治と対談が行われています。
直後に「さらばサムライ野球」を出版する。中畑清が王貞治監督のことを陰で「ワン公」と呼んでいたとか、篠塚和典は苦手投手の先発が予想されると仮病で休むなど、暴露本の様相を呈していたため話題となりました。原監督との仲もかかれていたようですね。
ただ、王貞治からは中距離打者であったが、広角に打ち分けるシュアな打撃は当時の監督であった王貞治からも「三割は確実にとれる」と絶賛されていました。
クロマティも 1984年から1988年まで巨人の監督であった王貞治を尊敬し、息子のミドルネームを「オー」と名付けているほどです。
クロマティの応援歌と歌詞
楽をしても クロウ クロウ 苦労をしても クロウ クロウ お前が打たなきゃ 明日は雨 クロマティとみんなが歌える楽しい歌詞とメロディでよく今でも芸能人が歌っていたりします。
歌詞は簡潔で楽しいもの、曲は軽快なマーチ風のリズム長さは普通の歌の半分、8小節くらいで、覚えやすく、合いの手が入れられるような歌詞や曲が人気を集めたといわれています。
まとめ:巨人・クロマティの現役の構え?メジャー 成績?背番号や宮下と乱闘と和解右ストレート?敬遠?暴露本?打率?敬遠 サヨナラホームランは?
結局バブルの巨人の象徴クロマティ!伝説の外人と言えるでしょう。
クロマティはオフシーズンにマイアミの自宅で六本木の風景がテレビに映るのを観て、すぐにでも飛行機に飛び乗って東京へ戻りたくなるようです。
今では日本で働いているみたいですので、クロマティの現在の記事もみてください。
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