張本勲(はりもと いさお)さんといえば、プロ野球史上唯一の通算3000安打を達成した“球界のレジェンド”として知られています。
しかし、その偉業の裏側には在日韓国人としての生い立ちや原爆被爆という過酷な経験、そして献身的な家族の支えがありました。
妻や子どもはどんな人なのか、兄はどんな役割を果たしたのか。
本記事では、張本さんの家族構成や自宅、国籍の変遷など、知っているようで意外と知られていないエピソードを網羅的にご紹介します。多面的に迫ることで、“喝!”の奥にある人間ドラマが見えてくるはずです。
項目 | 内容 |
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名前 | 張本 勲(はりもと いさお、韓国名:張 勲〈장훈, Jang Hoon〉) |
生年月日 | 1940年6月19日 |
出身地 | 日本、広島県広島市(出生地は韓国・ソウル特別市、戦時中に日本へ移住) |
国籍 | 日本(在日韓国人二世として生まれ、後に日本国籍を取得) |
身長 | 180cm |
体重 | 82kg(現役時) |
職業 | 元プロ野球選手、野球解説者、タレント |
投打 | 左投左打 |
プロ入り | 1959年、東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)に入団 |
現役期間 | 1959年 – 1981年 |
所属チーム | 東映フライヤーズ(1959-1970)、読売ジャイアンツ(1970-1975)、ロッテオリオンズ(1976-1981) |
背番号 | 10(主に使用) |
主な実績 | NPB通算最多安打(3085安打)、首位打者7回、最多安打10回、シーズン200安打を3度達成 |
タイトル・記録 | 日本プロ野球名球会初代会長、野球殿堂入り(1990年)、通算打率.319、504本塁打、1 |
張本勲の幼少期と家族や兄弟の背景

幼少期と家族の背景
張本勲(はりもと いさお)さんは1940年、広島県広島市の段原(だんばら)エリアで生まれました。ご両親は韓国・慶尚南道昌寧郡(けいしょうなんどう しょうねいぐん)大合面の出身で、当時は日本の統治下にあった朝鮮半島から1939年に渡日しています。
母・朴順分(パク・スンブン)さんは妊娠中にもかかわらず、子ども3人(兄と2人の姉)を連れて船で広島へ渡りました。その翌年に生まれたのが張本さんです。
家族は戦時下の厳しい社会状況の中、広島市内の六畳一間のバラック(トタン屋根の長屋)に住み、父親は軍需工場で働いていました。
しかし終戦後、父親は一時的に朝鮮半島へ戻った際、魚の骨が食道に刺さる事故で急逝。こうして幼少期の張本さんは、女手ひとつの母親と兄姉に支えられながら暮らすことになります。
被爆の悲劇と姉の死
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されたとき、張本さんはまだ5歳でした。自宅は爆心地から約2kmの地点にあり、家が倒壊するほどの被害を受けています。母親が幼い張本さんに覆いかぶさり、かろうじて命を守りましたが、当時12歳だった長姉・点子(てんこ)さんは学徒動員先で被爆し、数日後に大火傷がもとで亡くなっています。
母親は負傷した家族を必死に看護しながら、わずかに残った食料や物資をかき集め、懸命に生き抜きました。広島平和記念資料館の証言集などによれば、戦後の焼け野原では食糧難が続き、負傷者の治療もままならない過酷な状況が続いたとされます。張本さん一家も、その過酷な歴史を直接身に刻んだ当事者としての体験が、後年の張本さんの強い精神力にもつながったと考えられています。
ホルモン焼き屋台を切り盛りした母のたくましさ
終戦後、頼りであった父親を失い、家族はさらに困窮を極めました。母・朴順分さんは朝鮮式のホルモン焼き屋台を営み、貧しい生活を必死に支えます。
時には広島駅前の闇市などで焼き肉を売り、多くの在日韓国人が集まるコミュニティの力も借りながら家族を食べさせました。
この屋台での苦労は張本さんの幼少期に深い印象を与え、「困難に負けずに踏ん張る強さ」が彼の精神面を鍛えたといわれています。
母親は「韓国人としての誇りを忘れないように」と口癖のように言い聞かせ、差別や苦労が絶えない時代でも、家族が一丸となって生き抜く原動力となりました。
兄の献身が支えた大阪進学
張本さんには兄・世烈(セヨル)さんがおり、戦後は大阪でタクシー運転手として働いていました。月給は当時3万3,000円ほどでしたが、そのうち1万円を毎月仕送りし、弟の野球挑戦を陰で支えます。張本さん自身は「兄がいなければ高校進学も難しかった」と語るほど、この兄の援助は大きな意味を持ちました。
その結果、張本さんは広島を離れ、大阪の浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商高校)へ進学。4番打者として実力を発揮し、高校卒業後にはプロ野球入りを目指す道が開けました。兄のこの献身ぶりは、競合サイトでもあまり深く触れられていない部分ですが、張本さんの成功に大きく寄与した重要なエピソードです。
張本勲の結婚嫁や国籍、そして晩年の変化
ベールに包まれた妻と子どもたちや妻
プロ野球で輝かしい成績を収めた張本さんですが、家族(妻・子ども)に関してはほとんどメディアで語りません。
妻は一般人ということもあり、名前や年齢、結婚時期などの詳細は公表されていません。報道によれば、すでに他界されており、闘病生活を支えた経緯もあったと伝わります。
また、子どもについても非公開情報が多いものの、少なくとも2人いることがわかっています。2014年に出演したテレビ番組(『サンデーモーニング』)で「下の娘は親不孝だからね」と冗談交じりに語ったため、下の子が娘であることは判明しました。
上のお子さんの性別や職業はわかっていませんが、芸能界やスポーツ界とは縁がない一般の方とされています。
在日韓国人としての誇り
張本さんは1940年に広島で生まれた当時、日本国籍(日本帝国臣民)扱いでした。
しかし、第二次世界大戦後に施行されたサンフランシスコ講和条約などの国際法上の措置により、日本国籍を喪失し「在日韓国人二世」としての道を歩むことになります。
当時は在日韓国人への差別が強く、高校野球の場でも不当な扱いを受けたという証言が残っています。プロ入り時には「外国人選手枠」が壁となりましたが、「1945年以前に日本で生まれた選手は日本人枠とみなす」という特例が認められ、18歳で東映フライヤーズへ入団します。
この際、母親が「祖国を売ってまで野球選手になるな」と言い、いわゆる“便宜的な帰化”を固く拒んだエピソードが有名です。
プロ野球と国籍の壁
張本さんは在日韓国人のままプロ野球人生を全うし、日本プロ野球史上唯一の通算3000本安打(3085安打)を達成しました。これは日米通算最多安打を誇るイチローさんでさえNPBのみでは到達できていない大記録です。
一方、在日韓国人という点が原因で、王貞治さんや金本知憲さん、新井貴浩さんらと混同されることも多々あります。
また、読売ジャイアンツ在籍時に快挙を目前にしながらトレードに出されたのは「韓国籍の選手に記録を抜かれては困るという球団の思惑だったのではないか」と本人が振り返ったという報道もありました。
真偽は定かではないものの、国籍をめぐる苦悩が彼の野球人生の裏側にあったのは事実といえます。
晩年の日本国籍取得
長らく「韓国籍」にこだわり続けた張本さんですが、2024年になってから「実は数年前に国籍を変え、現在は日本国籍です」とインタビューで明かしています。
母親の教えを守り続けた彼が、なぜ晩年に帰化を決断したのかは明確に語られていませんが、本人は一部報道で「政治的な理由」や「在日韓国人を軽視する韓国政府の態度」を挙げ、「国籍は元に戻すこともできる」とも発言しました。
ただし、帰化後も「韓国を隠したことは一度もない」と語っており、在日韓国人としての誇りは今も色褪せていないようです。
実際、韓国政府からはスポーツ分野の最高勲章である「無窮花(ムグンファ)章」を授与されるなど、日韓をまたぐ象徴的な存在として評価されています。
張本勲の東京・田園調布の自宅

広島から夢の舞台へ
プロ野球入りを果たして以降、張本さんはチームの拠点に合わせて東京や札幌、千葉などで生活する時期もありました。東映フライヤーズ時代に本拠地が後楽園だったこと、また巨人やロッテでの在籍経験などを経て、最終的に解説者として拠点を構える場所として選んだのが東京都内です。
テレビやラジオの解説、コメンテーターとして全国を飛び回るには羽田空港に近い大田区周辺が便利だったともいわれます。
実際、広島時代の厳しい住環境から一転して、東京の高級住宅街へと移り住むまでの道のりは、まさに「夢の舞台を勝ち取った男」の象徴ともいえるでしょう。
高級住宅街に佇む邸宅
張本さんが住んでいるとされる大田区田園調布は、日本有数の高級住宅街として名高いエリアです。
長嶋茂雄さんや政治家の鳩山由紀夫氏など、多くの著名人が邸宅を構えていることでも知られています。インターネット上には「〇丁目にある豪邸が張本さんの自宅では?」といった噂やストリートビュー画像が出回っていますが、正確な住所や資産価値などの公的な情報は公開されていません。
一部の不動産関連サイトやSNSでは「門柱に蝶の飾りがある」「敷地が広い」など外観に関する書き込みも散見されますが、本人が自宅内部をメディアに公開したことはないため、いわゆる“豪邸”なのかどうかを公式に確認する術はありません。
いずれにせよ、張本さんの長年の功績や地位を考えれば、高級住宅街に邸宅を構えていても不思議ではないでしょう。
韓国語
張本勲さんは在日韓国人2世であり本名は「張 勲 (チャン・フン)」となります。
張本勲さんの両親が韓国の慶尚南道昌寧郡大合面の出身であり、戦前に日本海を渡って日本へ入り、その後帰化していないことから国籍は韓国のままとなっているようです。
母親は張本勲を身ごもったまま日本海を渡った
張本勲さんの両親は1939年に韓国の南東部にある慶尚南道昌寧郡大合面から日本に渡りましたが、母親は当時張本勲さんをお腹の中に身ごもっていた状態で、1940年6月19日に身を寄せた広島で生まれました。
張本勲さんは韓国を生みの親、日本を育ての親だと語っています。
張本勲さんには兄と2人の姉がいましたが、家族6人は6畳ひと間のトタン屋根で出来た長屋に住んでいました。
まとめ:張本勲の家族?妻?兄?両親?国籍は韓国人!兄弟?自宅?
張本勲さんの人生には、在日韓国人としてのアイデンティティや原爆被爆の体験、そして家族の支えが深く刻まれています。妻や子どもに関しては非公開が多い一方、兄の仕送りによって高校野球へ進学できたという事実は知られたエピソードです。
母のホルモン焼き屋台や貧困生活など、過酷な環境がかえって強靭な精神力を育んだともいわれます。晩年に日本国籍を取得してからも、韓国籍時代の誇りは失わず、日韓両国を結ぶ存在として評価されている点も見逃せません。
田園調布の自宅や豪邸のうわさなど華やかな話題もある一方、被爆や差別の歴史を踏まえると、張本さんの「喝!」が持つ重みをより深く理解できるでしょう。
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