高校野球ファンの皆さん、こんにちは!今回は東海大相模高等学校野球部の原俊介監督について、実家や家族の情報から指導者としての評判、さらには名門・東海大相模の歴代監督や原監督の実績まで、詳しくご紹介します。
原俊介監督は高校野球界でも注目の指導者ですが、その背景にはどんなストーリーがあるのでしょうか?東海大相模OBであり元プロ野球選手という経歴を持つ彼の人物像に迫り、野球ファンなら気になるポイントを網羅します。それではさっそく見ていきましょう。
項目 | 詳細 |
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氏名 | 原 俊介(はら しゅんすけ) |
生年月日 | 1977年8月30日 |
出身地 | 神奈川県秦野市 |
身長/体重 | 180cm/88kg |
投打 | 右投右打 |
ポジション(選手時代) | 捕手、一塁手、外野手 |
経歴(選手) | ・秦野リトルシニア ・東海大学付属相模高等学校 ・読売ジャイアンツ (1996年~2006年) |
経歴(指導者) | ・東海大学付属静岡翔洋高等学校 監督 (2016年~2021年) ・東海大学付属相模高等学校 監督 (2021年9月~) |
ドラフト | 1995年 ドラフト1位 (読売ジャイアンツ) |
現在の職業 | ・保健体育科教員 ・東海大学付属相模高等学校硬式野球部 |
原俊介監督の実家・家族:結婚兄弟について

原俊介監督のプロフィールと経歴
まずは原俊介監督の基本的なプロフィールから確認しましょう。原 俊介(はら しゅんすけ)監督は1977年8月30日生まれ、神奈川県秦野市の出身です。東海大学付属相模高等学校(以下、東海大相模)では強打の捕手として活躍し、3年生の春に甲子園(選抜)に4番・捕手で出場しました。
その大会では2回戦敗退ながらも2試合で8打数4安打と活躍し注目を集め、1995年のドラフト会議で読売ジャイアンツ(巨人)から1位指名を受け入団した経歴を持ちます。プロでは11年間プレーしましたが、一軍出場は通算68試合にとどまり、2006年に現役を引退しました。
現役引退後は一念発起して大学に進学します。2008年から早稲田大学人間科学部に進学し教員免許を取得、さらにCSCS(全米ストレングス&コンディショニングスペシャリスト)やNSCA-CPT(NSCA認定パーソナルトレーナー)といった資格も取得しました。このように第二の人生で勉強に励んだ背景には、「プロ生活で体を酷使してきたが、頭に限界はないと勧められて勉強を始めた」という思いがあったそうです。
また当時は元プロが高校野球の指導を行うには教員になる必要があった時代で、原監督もそれに則って教員資格を取得したのです。情報科と保健体育科の教員免許を取得し、高校野球指導者としての道を歩み始めました。
原俊介監督の実家・家族:結婚について
原俊介監督の実家や家族に関する情報を見てみましょう。原監督の出身地は神奈川県秦野市で、ご実家も秦野市にあります。高校も東海大相模、大学も社会人経験(巨人入団)を経てから早稲田大学と、地元神奈川を拠点に人生を歩んできました。
家族構成についてですが、現時点で公表されている範囲では、原監督が結婚しているという情報は見当たりません。2021年時点の取材でも結婚の有無は確認できず、当時は東海大静岡翔洋高校の野球部寮で部員たちと寝食を共にしていたことから「まだ結婚されていないのかもしれない」と推測する声もあったほどです。
そのため、現役の高校教員・監督というお仕事柄もあってか、プライベートについてはあまり表には出ていないようです。兄弟に関する情報も特に公になっておらず、不明です。
一方、原俊介監督のお父様については興味深いエピソードがあります。
原監督の父・原(俊介監督と同じ「原」姓)さんも実は東海大相模野球部のOBであり、現役時代のポジションは捕手でした。
兄弟関係について
原俊介監督の兄弟に関する情報も、公開されていません。父親の康夫さんに関する情報は比較的豊富にありますが、兄弟姉妹の存在については言及されていないのが実情です
巨人・原辰徳と原俊介監督の関係は?名前は同じ「原」でも親戚・父親
原俊介監督について語る際によく話題になるのが、巨人軍終身名誉監督でもある原辰徳(はら たつのり)氏との関係です。
苗字が同じ「原」であり、さらに偶然にも原辰徳氏と原俊介監督は東海大相模高校のOB同士でもあります。このため、「もしかして原辰徳の息子さん?親戚?」と勘違いする人もいるようですが、結論から言うと両者に血縁関係は一切ありません。
原辰徳氏は1958年生まれで、福岡県大牟田市の出身です。
一方の原俊介監督は1977年生まれで神奈川県秦野市出身と、生まれも世代も異なります。唯一の共通点は東海大相模高校の出身であることと「原」という姓だけです。原俊介監督が1995年に巨人にドラフト1位指名された際、当時巨人の監督を務めていたのが原辰徳氏でした。
姓が同じことから一部で「縁故(親戚)によるドラフト指名では?」との噂も出ましたが、実際には単なる偶然であり血縁上のつながりは全くないと判明しています。事実、巨人入団当時の原監督(辰徳氏)は原俊介選手と高校の先輩・後輩の関係だったものの、血縁はないと報道でも明言されています。
ただ、東海大相模と「原」姓には面白い因縁があります。東海大相模野球部の初代監督は前述の原貢(はら みつぐ)氏で、この方は原辰徳氏のお父様にあたります。原貢監督は東海大相模の野球部を創設から強豪に育て上げた名将であり、高校野球ファンには伝説的存在です。
その原貢監督が築き上げた強豪・相模を受け継ぐことに対して、原俊介監督も「原貢先生が築いた強い相模を引き継がなければいけない」という強い思いを抱いて監督就任に臨んだと語っています。名字は同じでも縁戚ではない原辰徳氏と原俊介監督ですが、図らずも**「原」の名は東海大相模の伝統と深く結びついている**のです。
まとめると、原辰徳氏と原俊介監督は親子でも親戚でもありません。しかし、原俊介監督の父が原貢監督の教え子であり、原俊介監督自身も原辰徳監督(当時)の下で巨人でプレーしたという、不思議な縁が存在します。同じ「原」という姓が東海大相模から巨人へ、そして再び東海大相模へと受け継がれていくようなストーリーは、野球ファンにとって興味深いエピソードですね。
東海大相模野球部の歴代監督一覧
初代・原貢監督(1966年〜1978年)
東海大相模野球部の礎を築いた名将中の名将です。1965年夏に福岡代表・三池工を工業高校として初優勝に導いた実績を買われ、東海大学創立者・松前重義氏の強い要請で東海大相模の監督に就任しました。
1970年夏の第52回大会では決勝でPL学園を10-6で下して初優勝を達成。さらに1972年春にも優勝を果たし、東海大相模を全国屈指の強豪校に押し上げました。
原貢監督の最大の功績は、息子の原辰徳を厳しく育て上げたことです。1974年から1976年まで3年連続で夏の甲子園に出場し、「親子鷹」として全国の注目を集めました。
2代目・田倉雅雄監督(1979年〜1987年)
原貢監督の愛弟子として24歳の若さで監督に就任しました。1980年、1986年、1988年の春の県大会で優勝を果たしましたが、1980年に体罰問題で夏の大会を辞退するという不祥事も経験しました。
田倉監督は東海大相模に47年間携わり続け、歴代卒業生約1400人の中で4度の全国制覇(1970年夏、2000年春、2011年春、2015年夏)をすべて経験した唯一の人物です。
3代目・村中秀人監督(1989年〜1998年)
原辰徳の1学年後輩で、高校時代は左腕エースとして原辰徳とともに甲子園の土を踏みました。1992年春に準優勝という素晴らしい成績を残しています。
現在は東海大甲府の監督として活躍しており、2012年夏の甲子園ではベスト4の成績を収めています113。
4代目・門馬敬治監督(1999年〜2021年7月)
29歳という若さで監督に就任し、22年間という長期間にわたって東海大相模を率いました。甲子園での通算成績は31勝8敗、優勝4回という驚異的な実績を誇ります。
- 2000年春優勝(筑川利希也エース)
- 2011年春優勝
- 2015年夏優勝(小笠原慎之介・吉田凌のダブルエース)
- 2021年春優勝(親子鷹での初優勝達成)
門馬監督の特筆すべき点は、2021年春の選抜大会で史上初の親子鷹(監督が父、選手が息子)での優勝を成し遂げたことです。これは恩師の原貢・辰徳親子でも成し得なかった偉業でした。
5代目・原俊介監督(2021年9月〜現在)
そして現在の原俊介監督へと繋がります。東海大静岡翔洋で5年間の経験を積み、2021年9月1日に母校の監督に就任しました。
原俊介の巨人現役時代!成績
強肩強打の選手として早い時期からファームの主軸打者であったが、守備位置が一定せず(ポジションは捕手・内野手・たまに外野も)、村田真一に替わる正捕手候補は村田善則や小田幸平が起用されることが多かったです。
その後鳴り物入りで入団した阿部慎之助の打撃力の向上もあり、2軍暮らしが長く続いました。
8年目の2003年に打撃力のある控え捕手として期待され初めて1軍に昇格。
プロ入り初本塁打は、東京ドームの看板直撃弾であったが、2003年7月24日放送のすぽるとで飛ぶボール問題を特集した時、パワーヒッターではない選手の初本塁打がここまで飛ぶのかと採り上げられた。
2003年、横浜ベイスターズ戦で受けた唯一の死球はサヨナラとなる押し出し死球だった。
2004年以降は、一軍の捕手が2人体制となり、ファームでは不動の4番として活躍する一方、一・三塁手としての起用が多くなる。
2006年前年まで2番手の捕手として起用された小田幸平が中日ドラゴンズへ移籍したことが追い風になると思われたが、星孝典や加藤健、新入団の實松一成などの台頭により、一軍でも打撃面を期待され指名打者や内野手としての起用がメインとなった。
2006年10月2日、球団から戦力外通告を受けた。その後12球団合同トライアウトに参加したものの、獲得する球団はなかった。
まとめ:原俊介監督の実家?結婚?兄弟?評判?原辰徳との関係は父・親戚?東海大相模 野球部の監督歴代
原俊介監督の物語は、単なるプロ野球選手から高校野球指導者への転身譚ではありません。実家の深い野球愛に育まれ、東海大相模という伝統校の系譜を受け継ぎながらも、現代の高校球児に適した新しい指導法を模索し続ける革新者の姿があります。
父親・康夫さんの「野球よりもまず人間性」という教え、原辰徳監督から受けた恩、歴代監督から受け継いだ東海大相模の伝統-これらすべてが現在の原俊介監督を形作っています。
結婚や兄弟についての情報は非公開ですが、それは野球指導に全身全霊を注ぐ原監督の姿勢を物語っているのかもしれません。原辰徳との血縁関係はありませんが、東海大相模という共通の母校と野球への情熱で結ばれた特別な絆があります。
2024年夏の甲子園ベスト8は始まりに過ぎません。原俊介監督が率いる東海大相模野球部の今後の活躍に、多くの野球ファンが注目し続けることでしょう。伝統と革新を両立させながら、新たな黄金時代を築く原監督の挑戦は続いています。
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