2019年の夏、高校野球ファンなら誰もが覚えているであろう、あの衝撃的な出来事。甲子園出場をかけた決勝戦で、「令和の怪物」佐々木朗希投手を登板させなかった監督、國保陽平氏。日本中から賛否両論、いや、むしろ批判の嵐を浴びた彼は今、どこで何をしているのでしょうか。
驚くことに、彼は静かに新たな挑戦を始めていました。
2024年7月、夏の岩手大会の球場で、國保氏は高野連の役員として駐車場の整理を行っていました 。かつての熱狂の中心にいた姿とは似ても似つかない、その静かなたたずまい。しかし、これは終わりではなく、新たな始まりの姿なのです。
國保氏は2025年4月から、盛岡白百合学園高校の教諭として新たなキャリアをスタートさせました 。そして、2026年度に新設される男子硬式野球部の初代監督に就任することが内定しています 。公立高校の教員という安定した職を辞してまで、ゼロから野球部を創り上げる道を選んだのです 。
なぜ彼は、再び野球の現場に戻ってきたのか。そして、あの夏の決断は本当に「間違い」だったのか。5年の時を経て見えてきた真実を、一緒に紐解いていきましょう。
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 國保陽平 |
生年月日 | 1987年3月14日 |
出身地 | 岩手県盛岡市 |
身長 | 183cm |
体重 | 90kg |
ポジション | 外野手 |
投球・打席 | 右投右打 |
所属グループ | 岩手県立盛岡第一高等学校野球部副部長 |
國保陽平の現在?大船渡高校の野球部の監督批判・無能!正しかった?
日本中が凍りついた「あの日」― なぜ佐々木朗希は投げなかったのか?
全国高校野球選手権岩手大会、決勝戦。大船渡高校 対 花巻東高校 。勝てば35年ぶりの甲子園。誰もがエース・佐々木朗希の圧巻のピッチングを期待していました。
しかし、試合開始のサイレンが鳴っても、マウンドに彼の姿はありませんでした。それどころか、4番打者でもある彼が、一度もバッターボックスに立つことさえなく、試合は終わりました 。
「故障を防ぐためです」 。
試合後、國保監督が語った理由は、あまりにもシンプルで、当時の高校野球の常識からは考えられないものでした。「3年間で一番壊れる可能性の高い試合だった」と彼は付け加えました 。
結果は、2対12の大敗 。甲子園の夢は、あと一歩のところで儚く散りました。この采配は、瞬く間に日本中を巻き込む大論争へと発展します。「勝利」と「選手の未来」、どちらが大切なのか? 國保監督は、高校野球界に巨大な問いを投げかけたのです 。
クビ・退任・無能といわれたが國保陽平監督の英断の声
外部からの批判以上に國保監督を苦しめたのは、皮肉にも、最も身近なはずの地元コミュニティからの猛烈な反発でした。敗戦後、大船渡高校には抗議の電話が殺到。その9割が監督を非難する内容だったといいます 。
そして、追い打ちをかけたのが、野球部OB会の動きでした。2019年10月、OB会の代表者は校長のもとを訪れ、「國保監督の交代」を正式に要求したのです 。彼らは、4回戦で194球も投げさせたのに決勝で休ませるという「ちぐはぐな采配」や、新チームの大事な時期に韓国へ渡った「無責任さ」を問題視しました 。かつての名監督は「監督としても、教育者としても失格」とまで言い放ちました 。
では、ユーザーの皆さんが最も気になるであろう「國保監督は無能でクビになったのか?」という疑問。その答えを探っていきましょう。
公式記録では、彼は2021年夏に監督を「退任」しています 。しかし、その裏側では、OB会からの交代要求という事実 があり、あるメディアは彼が地元の非難を浴びて「退任を余儀なくされた」と報じています 。
これは、成績不振などによる「無能だからクビ」とは全く意味が異なります。彼のチームは県大会決勝まで勝ち進んでおり、指導能力がなかったわけではありません。問題は、彼の先進的な決断が、地域コミュニティとの間に深刻な対立を生み、学校を巻き込む「政治的な問題」にまで発展してしまったことです。
このような状況での「辞任」は、事実上の「更迭」であり、組織の混乱を収めるために、彼一人が責任を負う形での「政治的決着」だったと言えるでしょう 。彼は、自らの信念を貫いた結果、愛するチームを去らなければならなかったのです。
関連記事:佐々木朗希の高校時代の野球どこ?甲子園出場せず?球種・球速・成績は?
國保陽平監督の現在
なお、佐々木は試合後メディアの取材に対して「監督の判断なので、しようがないです。高校野球をやっていたら、試合に出たい。投げたい気持ちはありました」と答えている
2019年7月、大船渡高校が全国高校野球選手権岩手大会決勝戦まで駒を進めるが、花巻東高校に敗れ準優勝。 この試合でエースの佐々木朗希の登板を見送ったことが賛否両論を巻き起こし、社会的に大きな関心を集めました。
2021年の夏の大会を以って監督を退任。 現在は岩手県立盛岡第一高等学校野球の副部長を務めています。
決勝登板回避問題で批判!
2019年7月30日に行われた第101回全国高校野球選手権岩手大会決勝戦において、佐々木は登板することなくチームも花巻東高校に2-12で敗れ、大船渡高校はあと一歩のところで35年ぶりの甲子園出場を逃しました。
大船渡高校野球部監督國保陽平とは
國保 陽平(こくぼ ようへい、1987年3月14日 – )は、岩手県盛岡市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。現・岩手県立大船渡高校野球部監督です。
2017年4月より岩手県立大船渡高校に異動し、野球部監督に就任
出身地 岩手県盛岡市
生年月日 1987年3月14日(35歳)
身長
出身地 岩手県盛岡市
生年月日 1987年3月14日(35歳)
身長 183 cm
体重 90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
体重 183 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
國保陽平監督は?大船渡高校野球部監督批判も
試合後、大船渡高校の國保陽平監督は「3年間で(佐々木が)一番壊れる可能性があると思った。故障を防ぐためですから。私が判断しました」と登板回避の理由を説明したが、これに対して大船渡高校には2日間で250件の苦情が殺到しました。
一方で、甲子園の名将とも言われる高校野球の監督・元監督らからは「一番大事な決勝。理解に苦しむ」(横浜高校・渡辺元智前監督)、「回避にびっくり」(大阪桐蔭高校・西谷浩一監督)、「佐々木君が出ていたら勝っていたかもしれない」(履正社高校・岡田龍生監督)等、批判かやや批判寄りのコメントがなされました。
智弁学園和歌山高校・智弁学園高校の高嶋仁元監督は、「苦渋の決断をした勇気は認めなくては」としつつ「自分なら決勝から逆算して投げられるように県大会全体でやりくりをする。無理はさせない前提だが、その上で何とか甲子園に連れて行ってやろうとした。甲子園は聖地で、成長の大きな機会でもあるから」とコメントしました。
佐々木朗希の大船渡高校野球部監督批判?決勝登板回避問題で野球OBの声は?
佐々木のその起用法を巡っては野球関係者や評論家の間でも賛否両論が巻き起こり、メディアでも多数取り上げられることとなりました。
張本は?
特に注目された発言として野球評論家の張本勲が、自身の出演するテレビ番組である「サンデーモーニング」において「絶対に投げさせるべきだった。監督と佐々木のチームじゃないですよ。チームの選手は1年生から3年生まで必死に練習して、甲子園が夢なんですよ」とコメントした。
金田正一
その張本はプロ通算400勝投手の金田正一から電話を貰い、佐々木の登板回避問題について「投げさせなきゃだめだ。賛否両論じゃない。99%だ」と、金田が電話口で力説していました。
ダルビッシュ
これに対して当時シカゴ・カブスのダルビッシュ有は自らのツイッターで、張本の発言をめぐる記事を引用したうえで漫画『ドラゴンボール』のキャラクター“シェンロン(神龍)”を持ち出し、「シェンロンが一つ願いこと叶えてあげるって言ってきたら迷いなくこのコーナー(張本の出演するテレビ番組)を消してくださいと言う」と投稿。
また、野球評論家の桑田真澄も報知新聞において「大船渡の國保監督と佐々木投手の勇気に、賛辞を贈りたいと思います」とコメントしています。
ほか、サッカー界でも日本代表の長友佑都やサッカー解説者の前園真聖が、選手の将来を考えた監督の決断を支持するコメントを残しました。
【國保陽平の現在?】よくある質問

佐々木朗希は甲子園に出場していないのですか?
- Q佐々木朗希は甲子園に出場していないのですか?
- A
佐々木選手は甲子園出場はしていません。甲子園の予選大会では花巻東高校に2−12で敗れ出場とはなりませんでした。
関連記事は下記です。
大谷翔平は甲子園に行きましたか?
- Q大谷翔平は甲子園に行きましたか?
- A
大谷翔平選手は甲子園に出場したことがあります。
花巻東高校の野球部に所属しており、2年生の時の夏の甲子園大会(第93回大会)と、3年生(直前)の選抜大会(第84回選抜大会)の合計2度の出場がありました
関連記事は下記です。
佐々木朗希は何人兄弟ですか?
- Q佐々木朗希は何人兄弟ですか?
- A
佐々木 労基は震災で誰をなくしたの?
- Q佐々木 労基は震災で誰をなくしたの?
- A
佐々木朗希選手は東日本大震災で父と祖父母を亡くしました。9歳の時に岩手県陸前高田市で被災し、最愛の父と祖父母を失いました
関連記事は下記です。
まとめ:國保陽平の現在?大船渡高校の野球部の監督批判・無能!英断・退任
結論として、國保陽平監督は「無能」だったのでしょうか?答えは、断じて「NO」です。
彼は、時代の少し先を行き過ぎた、強い信念を持つ指導者でした。頑固で不器用な一面もあったかもしれません 。しかしその根底には、目の前の勝利という「夢」以上に、一人の教え子の「未来」を何よりも大切に思う、教育者としての深い愛情と責任感がありました。
彼が受けた批判の多くは、医学的背景を知らない感情論でした。彼の退任は「クビ」ではなく、信念を貫いたがゆえの「政治的決着」でした。
あの夏、彼が流した涙 は、後悔の涙ではなかったはずです。自らのキャリアと引き換えに守り抜いた教え子の未来と、変わりゆくべき日本野球の未来を思い、流した涙だったのではないでしょうか。
國保陽平という指導者の功績は、甲子園出場という記録には残りませんでした。しかし彼は、「選手の未来を守る」という、お金では買えない尊い価値観を、日本野球界に深く刻み込んだのです。その魂は、これから白百合学園で彼が育てる新しい選手たちへ、そして未来の日本球界へと、きっと受け継がれていくことでしょう。
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