清原和博は1967年8月18日、大阪府岸和田市で生まれました。
実家は「清原電気商会」という東芝と提携する電器店を営んでいました。
父親の洋文さんは外回りの仕事が多く、祖父母の浅次郎さんと良子さんが店番をしながら清原和博と弟の幸治を見守っていました。
母親の弘子さんは息子の野球の才能を伸ばすため、毎日20キロのランニングを課し、自転車で並走するなど厳しい指導をしていました。
プロ野球選手として成功した後、清原は父親に「もう働かなくていいよ」と言いましたが、洋文さんは「俺とお前は違う」と断り、電気屋の仕事を続けました。
弟の清原幸治とは、2016年の薬物事件の際に絶縁状態となっていることが報じられています。幸治氏はPL学園で主将を務め、青山学院大学でも活躍した元アマチュア野球選手でした。
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 清原和博 |
生年月日 | 1967年8月18日 |
出身地 | 大阪府岸和田市 |
血液型 | B型 |
身長 | 188cm |
体重 | 104kg |
ポジション | 内野手・会長付特別補佐兼インストラクター |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 1985年ドラフト1位 |
所属球団 | 西武ライオンズ(1986年-1996年) 読売ジャイアンツ(1997年-2005年) オリックス・バファローズ(2006年-2008年) |
背番号 | 51(1986年-2014年) 24(2015年-2017年) 11(2018年) 51(2019年) |
年俸 | 約2億1000万円(2017年) |
清原和博の父親は清原洋文!実家は岸和田の電気商会

清原和博の実家は『清原電気商会』
実家が家電店を父は阪神タイガース(阪神)ファンで、父以外の家族はみな読売ジャイアンツ(巨人)ファンであり、その影響で自身も巨人ファンとして育った営む彼の父は清原洋文さんが阪神ファン。
その他の母親弘子さん含む家族は熱烈巨人ファンという
環境の中で彼は誕生する。
清原の実家って『清原電気商会』という商売やってるんですか
父親は清原洋文!言葉

清原和博の父、洋文さんは、2023年3月25日に85歳で亡くなりました。
2023年3月、85歳で他界した洋文さんとの最期の対面では、清原和博と元妻の亜希さんが一緒にお見舞いに行きました。その時、洋文さんは息子の手を3回握り締め、目を見開いて最後の別れを惜しんだといいます。
生前、岸和田市で電器店を経営しており、地域に根ざした商売をしていました。清原氏は、父親との関係について「自慢の父」と語っており、彼の影響を受けて育ったことを明かしています。
清原和博は成功後、父親に「もう働かなくていいよ」と伝えましたが、洋文さんは「俺とお前は違う」と断り、電気店の仕事を続けました。実家の「清原電気商会」は東芝と提携する電器店として営業を続けていました。
薬物事件の際、清原和博は法廷で「親不孝な息子で申し訳ない」と涙ながらに謝罪しました。この時、父からの手紙が法廷で読み上げられ、それは洋文さんが生まれて初めて息子に宛てた手紙だったことが明かされています。
ただ下記のやり取りがあります「もう1回頑張ろうとか誰かの言葉やったりとか、人との出会いはあったんですか」と聞かれると、
「自分の場合は父でしたね」と明かしています。現役時代は父から頑張れと言われるのが嫌だったというが、留置場の中で父の手紙を受け取ると
と父親の励ましの言葉に涙したことを明かした。
清原和博の母は清原弘子!

母の形見の指輪
母親の弘子さんは、2019年3月5日に心不全で亡くなりました。享年78歳でした。清原氏は、母親が「怖かったけど命懸けで優しく育ててくれた」と語り、母親の愛情深い教育方針を振り返っています
2019年3月5日未明、弘子さんは心不全のため78歳で他界しました。清原は容体急変を知り駆けつけましたが、最期には間に合いませんでした。晩年は認知症を患っており、清原の薬物事件についても理解していなかったとされています
母の三回忌にあたる2021年3月、清原は母の形見の指輪を首から下げ、タトゥー除去の施術を開始。これは新たな人生への決意表明となりました
清原和博の母は大阪のお母さんってイメージ通り?家族写真
家族の写真はよく映っていますね。
お母さんの弘子さんはいかにも大阪のお母ちゃんと言った感じの気性のようで、い入団当初慣れない生活に食事面も気がかりな母親は、当初は結構食事を大量に作りにきてくれたりとあらゆる面で息子をサポートします。
野球の強豪高校との繋がりのなかった清原家で、唯一の繋がりは弘子さんが天理市出身ということでした。
結局、清原氏は天理高校へは行かずにPL学園を希望し、弘子さんは天理教に詫びを入れて、PL教に入ることとなりました。
その際、天理教は快諾してくれただけでなく、PL学園が甲子園で初優勝した時には、真っ先に弘子さんに連絡してくれたと言います。
野球をやめる?
ある日、清原氏は大好きな祖父母のお墓の前で、母・弘子さんにこう言います。
久しぶりにおんぶしてやるわ
何かを察知した弘子さんは、黙って清原氏の背中に乗ります。
そして清原氏は母を背負い、祖父母の墓へと続く坂を登りながら、
お母さん、僕な、野球辞めるわ
涙をこらえながら、さりげなく話した清原氏の背中で、
わかった。もう辞め。
と母・弘子さんも嗚咽(おえつ)をあげて言いました。
弘子さんは天理教に入信して、強豪の天理高校に息子を入れようとしたのです。
西武ライオンス入団後も関係は続く
弘子さんは、清原が西武時代に1人暮らしを始めた際も、往復8時間かけて上京し、食事作りや掃除、洗濯の世話を続けました。また、開幕戦の朝には必ず尾頭付きのタイを用意し、息子の活躍を支え続けました。
「和博、負けたらアカンで」という言葉をよく掛けており、息子への深い愛情を示していました。
また「和博はお父さんに似て口下手やから。偉そうに話して敵も多い子やけど、わかってあげてね」と周囲に理解を求めることもありました
命日ツイッターで母への思い!タトゥーをけす
清原和博氏は今年春、すでに冷たくなってしまった母と対面したときのことを、こう振り返っている。
「子供の時以来ですね、あんなふうにお母さんに抱きついたり、自分の頬をお母さんの頬にひっつけて、泣いたのは」
逮捕後、薬物への強い欲求、さらには重いうつ病と闘いながら、再起に向けた道を歩み続けてきた清原和博。その更生のさなかだった今年3月、自身のいちばんの理解者だった母が急逝してしまったのだ。母は認知症始め、さまざまな病を抱え、長期間に及ぶ闘病生活を続けていた。
「子供のころから、僕が悪さしたとき、尻拭いしてくれたのもお母さんでした」
こう話す清原氏。じつは、息子が薬物依存で苦しんでいたことを、母は知っていたという。
「僕が薬物に手を出してしまっていたのは、知っていました。お母さんも認知症を患う前でしたから」
清原氏は、母からそのことで叱責された記憶はない、と話す。
ただ、覚えているのは、母からぶつけられた「あんたをもう一回、私のおなかのなかに戻したい」という言葉だけだ。
ツイッターを更新。「3月5日、早く目が覚めた 今日は母の命日 大好きな数字 3と5」と書き出し、生前の母から「和博勝て!! 和博負けるな 和博ガンバレ 和博負けるな! 何があっても大丈夫だよ! 弘子 6月19日」と激励された直筆文の写真をアップ。
「お母さん!何があっても俺は負けへんよ!いつも天国から見守ってくれてありがとう!」と感謝の言葉をつづった。
清原和博の弟の清原幸治とは絶縁

弟の清原幸治は?絶縁中?
清原和博氏の薬物使用や暴力団との関係が主な原因とされています。これは、PL学園時代の同級生である桑田真澄氏との絶縁パターンと類似しています。
桑田真澄氏は清原和博氏に対して、薬物や暴力団との関係を断つように忠告しましたが、逆に清原和博氏から「かかわらないでくれ」と絶縁を迫られました.
清原幸治氏も桑田真澄氏と同様に、兄である清原和博氏を心配して忠告したと考えられています。また、暴力団関係者からの接触を避けるため、身を守る目的で絶縁せざるを得なかった可能性も指摘されています。なお、この絶縁状態により、2016年の薬物事件の際には身元引受人が不在という事態にまで発展しました.
弟とのエピソード
小学校3年生の時に野球を始める。シニアリーグ時代は捕手を務めました。
全国大会で準優勝を果たす。PL学園高等学校時代は野々垣武志と同期で、1年生では片岡篤史の付き人(逆に片岡は兄の和博の付き人であった)、3年生では主将を務めた。
高校卒業後、青山学院大学に進学します。
大学では同期の小久保裕紀と共に2年春からレギュラーとなり、副主将を務めた4年春の東都リーグ戦では打率.373の活躍でリーグ優勝に貢献した。
初のベストナイン(一塁手)とともに、最優秀選手にも選出されている。さらに同年の大学選手権でも優勝を果たした。東都1部リーグ通算74試合に出場、238打数64安打、打率.269、5本塁打でした。
2016年、兄の和博が薬物で逮捕された時には、絶縁状態であったことが報じられた
清原和博の生い立ち・幼少期

小学校3年生で既に身長が155㎝はあった。地元岸和田のリトルリーグに入団して翌年の4年生頃には既に6年生に交じって試合にも出場する活躍を見せていました。
幼少期にはとても恥ずかしがりやでいつも母親の後ろに隠れてついて歩くような子供だったと言う。
清原が7歳の1974年に、巨人は中日ドラゴンズにV10(セントラル・リーグ10連覇)を阻止され、翌1975年は球団史上初のリーグ最下位に転落します。
家族が応援する巨人が2年連続で優勝を逃したことが、清原が野球の世界に入っていくきっかけの1つだった
清原和博の性格は優しい!

性格はとても優しかった
二十歳前後で年上の後世にも語り継がれるような幾人ものスター選手たちと共にどう過ごしていたか。
自分は駄目だとか実力はまだまだなんて感じながら性格が歪められたようだ。
未成年ならば決して珍しくない内面なので、皆、様々な悩みを抱えながら人生に取り組んで行く。
ただし清原和博にかぎっては野球一筋だったがゆえに自分自身への問いかけが人格形成には足りなかったかも知れない。
人間精神において自我が内面性を支えるに至るまでの過程が未成年では取り分け重視される。
人物像は純粋シャイ礼儀正しい
清原の人物像について、西武時代の関係者からは、「実に純枠な男である」(森祇晶)、「素顔は少々シャイな感じで、それでいてよく気がつく、気持ちのとても優しい男」(渡辺久信)などという声がある。
大久保博元は自身のYouTubeチャンネルで「目上に対して礼儀正しい男」と評価しているが、門限破りなどで罰金が嵩んでしまい東尾修が球団に清原の罰金を分割にするよう交渉した逸話を明かしている。
いしいひさいちの野球マンガには20代前半のころ描かれることが多かったが、短躯でシュールな言動の桑田との凹凸コンビで振り回される、一本気な大男キャラクターとなっており、このころのマスコミイメージを反映している。
巨人へ移籍後に番長キャラ
しかし、巨人へ移籍した頃から、日焼、短髪、ピアスなどファッション傾向に変化が出始め、「番長」のニックネームが定着するようになった。
こうした人物像の変遷の果ての先述の有罪判決(2016年)を受けて、西武入団直後の森監督ら西武側の指導者の人間教育などに、その原因を求める声もある(広岡達朗[、野村克也)。
また「タイトルを獲りたい」「周りに認められたい」という思いが人一倍強かったゆえ、その呪縛に陥ったという分析もある。
!兄弟の幸治と絶縁!両親!家族?実家は岸和田電気商会!
いかがでしたでしょうか。
今回の記事は【清原和博の両親】父親は洋文!母は弘子!兄弟の幸治と絶縁!両親!家族?実家は岸和田電気商会!についてお伝えしました。
野球選手になって家族の人生も大きくかわってしまったのかもしれないですね。
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