こんちは、ヨシラバーです。
吉川尚輝の活躍で仁志敏久以来のセカンド定着そして背番号8を継承するのではないかと話題になっています。8と言えば仁志敏久と原辰徳ですが、2人はしばしば不仲ではないかと噂されていますが本当なのでしょうか。仁志目線で語ります。
http://yoshilover.com/post-2130/
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原辰徳と仁志敏久の不仲説はなぜ生まれた?
① 背番号8を原辰徳引退後すぐ継承した
② 思ったことをすぐ口にする仁志の不器用な性格が原監督と合わない
③ 横浜にトレードに出されてしまったから
動画でもどうぞ!
不仲ではないと思われるその理由
2009年に発売された以下の本では仁志は原辰徳について16ページ分語っています。本当に不仲ならインタビューも拒否しますよね。
https://www.amazon.co.jp/原辰徳-―その素顔―-今井美紀/dp/4384088884
①原の大ファンだった小学生時代
仁志が野球を始めた頃に大学のスーパースター原辰徳が巨人に入団。王さんが絶大な人気を誇っていたなか、仁志少年は原辰徳のファンだったのです。
僅かな限られたお小遣いをコツコツ貯めては茨城の北西部の古河市(ピース綾部の出身地)にある数少ないスポーツ店に行き原辰徳のポスターを何枚も購入していたそうです。
②原のサイン入りバットで練習した中学時代
中学一年の時に雑誌の懸賞に応募し、原さんのサイン入りバッドが当たった仁志少年。普通なら飾る所ですが、なんと仁志少年は自宅でのティーバッティング用に使っていました。プロになってサインして貰おうと考えていたんですね。最終的に願いは叶いました。うーん、プロになる方は考え方から違うんですね!!
③4年目に叶った夢!憧れの人と同じチームに!
原辰徳の引退時に入れ替わるような形で仁志は入団。その4年後に指導者として原さんが入ってきます。原辰徳の引退時にスピーチした「私は夢があります」。仁志は一緒にその夢を叶えられて「まさかそんなことになるとは夢にも思っていなかった、自分が野球を始めてから巨人に入るまでのそこまでの期間を考えると全くありえない話です」と感じていたようです。
④原辰徳時代のプレッシャー
原辰徳が監督就任した2001年、仁志敏久は2番打者への配置転換し最終的には7番になっています。ただ原監督が監督に就任した際は長嶋監督の次の監督というプレッシャーや常勝軍団という強いプレッシャーがありました。厳しい采配をしていたのは仁志だけに限った話ではありません。
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まとめ
確かに現役時代の仁志は一番バッターでなくなり、首脳陣が何を考えているか分からないと話をしていたころがあります。また、桑田と2軍で原監督の文句を言っていたとの話もあります。
でも、原辰徳も尊敬する長嶋茂雄に晩年はひどい扱いがありましたが、それが糧となり優秀な監督になり、今では感謝の気持ちがあると思います。
仁志も少年野球の監督をやることになり、あのころの気持ちは何かしらの役に立ち原辰徳には感謝の気持ちがめばえているのではないでしょうか。
原辰徳のトッピックです。
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