篠塚和典は、巨人軍の天才打者として知られながら、名球会入りを果たせなかった伝説の選手です。
1975年のドラフト1位で巨人に入団し、1992年に篠塚利夫から篠塚和典に改名。通算1696安打、2度の首位打者、5度のベストナイン、4度のゴールデングラブ賞を受賞した名選手です。
イチローも憧れた芸術的な打撃と守備で、80年代を代表する巨人の至宝と呼ばれました。
カテゴリ | 詳細情報 |
---|---|
氏名 | 篠塚和典(しのづか かずのり) |
生年月日 | 1957年7月16日 |
出身地 | 千葉県銚子市 |
身長・体重 | 176cm・68kg |
投打 | 右投左打 |
ポジション | 二塁手 |
所属球団 | 読売ジャイアンツ(1976年〜1994年) |
ドラフト | 1975年1位指名 |
通算成績 | 打率.304、1696安打、92本塁打 |
主な受賞歴 | 首位打者2回(1984年、1987年)、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回 |
引退年 | 1994年 |
篠塚和典の改名はなぜ?本名は?
篠塚和典の本名は篠塚利夫です。篠塚和典の改名には、深い意味がありました。
元の名前「篠塚利夫」の「利夫」には、「分裂、分離」という意味があるとされ、知り合いの内気功の先生から名前を変えるよう勧められたのです。
特に「利夫」の「と」が肉離れや骨折を連想させるため、「和」の字を使うことで運気やパフォーマンスの改善を期待しました。
1992年7月1日に正式に登録名を変更したこのタイミングは、選手晩年の1990年代における腰痛や出場機会の減少と重なっていました。
当時、プロ野球選手の間では、運気を変えるための改名は珍しくなく、占い師や気功の先生からのアドバイスが改名の契機となることも珍しくありませんでした。
篠塚和典にとって、この改名は単なる名前の変更ではなく、野球人生における象徴的な出来事だったのです。
篠塚和典は天才で伝説だが名球界はいれなかったのは?現役時代成績

名球界はいれなかったのはなぜ?
篠塚和典が名球会入りできなかった理由は、主に2つの要因に集約されます。
第一の要因は、2000本安打の未達成です。
篠塚は通算1696安打にとどまり、名球会入会の最低条件である2000本安打に届きませんでした。
本人も「2000本打てると思っていた」と語っており、わずかながら目標に届かなかった悔しさを感じていました。
第二の要因は、キャリア後半の出場機会の減少でした。
1990年代に入り、持病の腰痛により出場試合数が激減しました。
シーズン100試合以下にまで落ち込み、若手選手への道を譲ることになりました。篠塚自身は「まだまだ続けられる」と考えていましたが、長嶋監督への配慮から引退を決意しました。
自身の野球人生を、チームのために潔く締めくくることを選んだのです。結果として、名球会入りを逃す形となりましたが、通算打率.304、2度の首位打者獲得など、その卓越した打撃技術は今も語り継がれています。
生涯成績は?
シーズン打率3割以上を5年連続も含めて7回記録しています。また、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献しました。81年の.357という打率は巨人の日本人の野手としては、歴代2位の高打率です。
生涯成績をみると驚きを感じます。80年代を代表する巨人のバッター、成績が全てを物語っていますね。
生涯成績
安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 |
1696 | 304 | 92 | 628 |
個人タイトル
首位打者 | 2回 (1984年、1987年) |
ベストナイン | 5回 (1981年、1982年、1984年、1986年、1987年) |
ゴールデングラブ賞 | 4回 (1981年、1982年、1984年、1986年) |
イチローが憧れたバッター
芸術的なバッティングは、ファンを魅了してやみません。本人が公言したわけではありませんが、あのイチローも篠塚和典の打撃センスに憧れていた1人だと伝えられています。
イチローが使っているバットは、篠塚和典が使っていた「篠塚モデル」がベースでだそうです。イチローのプレースタイルを見れば、篠塚和典に重なるところが少なからず見受けられます。
篠塚和典のバッティングの伝説エピソード
1993年6月9日の対ヤクルト戦(石川県立野球場)では、8回2/3まで無失点、16奪三振)のピッチングを続けていたルーキー伊藤智仁から9回2死からのサヨナラ本塁打を放ちました。
2度タイムをかけて伊藤をじらせた上での狙い澄ました一撃で、試合後には篠塚は「狙い通りの球だった」と述べていて、伊藤はグラブを投げつてた姿が印象的でしたね。
伊藤智仁氏は、近年では「あの篠塚が俺のタイミングを嫌ったぞ!」と若干の慢心が出たと振り返ります。小さな気持ちの変化を引き出した篠塚の駆け引きが、それまで完璧な投球を続けてきた投球を狂わせました。これこそ名勝負でしたね。
名球会は2000安打達成ならず
90年以降は腰痛が悪化し、出場試合数が100試合を切るなど出番が激減します。1994年はとうとう57試合出場に終わり、チームの日本一奪回を見届ける形で現役を引退。
実は、篠塚 和典は、首位打者を2回とり、生涯打率も3割を超えている好打者にも関わらず、2000本安打は達成していないんですよね。これは驚く人もいるのではないでしょうか。
まとめ:篠塚和典は天才で伝説だが名球界?改名で本名は?現役時代成績!元巨人
いかがでしょうか。
篠塚和典は天才で伝説だが名球界?改名?現役時代成績!元巨人についてお伝えしました。
篠塚は、顔もイケメンでファッションリーダーと言われる存在でした。それでいて、クールに守備を守り、打率は高く、ホームランまで打ってしまう。
仁志・篠塚と見てきたため、ファンや首脳陣の間ではセカンドに対する要求が高いのかもしれません。ただ、レギュラーを任せられる二塁手が吉川や山本ならなければ、巻き返しを狙う巨人にとって、大きな課題となりえます。
コメント