今は台湾人の巨人の選手が珍しくはないですが、衝撃的なデビューを果たしました呂 明賜の話題をしたいと思います。「呂は台湾の最高傑作。日本で名を残してもらわないと、われわれ台湾棒球人の恥となる」とまでいわれた男です。
出身地 | 台湾 |
生年月日 | 1964年10月30日 |
身長 | 178 cm |
体重 | 86 kg |
利き腕 | 右投げ右打ち |
大学 | 中国文化大学 |
日本 | 読売ジャイアンツ |
呂明賜の現在の活動・近況(2025年)
元読売ジャイアンツの強打者である呂明賜(ろ・めいし)さんは、2025年現在60歳となり、母国台湾で野球指導者として活躍しています。
現役引退後は台湾プロ野球でコーチ職などを務め、2012年からは台北市の社会人野球チーム「台北市成棒隊(興富發棒球隊)」の総監督に就任し現在も指揮を執っています。
2013年には台湾代表チームの監督にも抜擢され、2014年アジア大会では台湾を準優勝に導く実績も残しました。日本のプロ野球OB戦や交流イベントに参加することもあり、2016年には東京ドームで開催された巨人OB対台湾OBのチャリティー試合に出場し、久々に日本のファンの前で元気な姿を見せています。
このように、現在は台湾を拠点に後進の指導や野球振興に尽力しており、日台双方の野球界で存在感を放ち続けています。
呂 明賜、クロマティの復帰後は?現役時代のプレースタイルと弱点(打撃・守備)
クロマティの復帰後は?
しかし翌年には、クロマティが復帰し、またガリクソン(’89年)やマイク・ブラウン(1990年)といったほかの外国人選手との外国人枠の兼ね合い、起用方針が若手選手主体に転換されたため二軍暮らしが続きました。元々 アベレージヒッターではないので外国人でレギュラーになるためには、3割打つという事が必要でした。その枠に関しても 今より少ないので
非常に狭き門でした。 結果として、二軍暮らしが続き、退団しました。
現役時代のプレースタイルと弱点(打撃・守備)
呂明賜選手は1988年に読売ジャイアンツへ入団し、一軍初出場となった同年6月14日の試合で初打席初本塁打を放つ鮮烈なデビューを飾りました。その後も「全打席ホームランを狙う」という豪快な宣言通り、デビューからわずか9試合で7本もの本塁打を量産し、一躍チームの主砲候補として脚光を浴びます。
前傾姿勢の独特な打撃フォームから繰り出される大きなスイングは非常に豪快で華があり、その圧倒的な長打力からメディアやファンから「アジアの大砲」や「怪物」と称されました。右投右打のスラッガーらしくフルスイングでスタンドに放り込む打撃が持ち味でしたが、一方で明確な弱点も存在していました。
特に指摘されていたのが内角高めの速球への弱さです。1988年後半戦になると他球団の投手たちにこの弱点を徹底的に攻められ、オールスター前まで打率3割を超えていた成績が後半戦には急降下してしまいます。
実際、同年後半は左膝の故障悪化によるコンディション不良も重なり、加えて不振打開のためフォーム改造に手を付けたことも裏目に出てしまい、一時は魔法が解けたかのように打撃成績が伸び悩みました。シーズン通算では打率.255、本塁打16本とまずまずの数字を残したものの、前半の爆発的な活躍に比べると失速感は否めず、「研究されたら打てなくなった」という評価が定着してしまいます。しかし本人は腐らず二軍で弱点克服に努め、内角球への対応力を高める努力を続けました。
翌1989~90年には二軍(イースタンリーグ)で2年連続打率3割・二桁本塁打を記録するまでになり内角攻めにも対応できるようになりますが、当時は外国人枠(1軍登録は各球団2名まで)の制約もあり一軍で再び活躍の場を得ることは難しく、1991年シーズン限りで惜しまれつつ巨人を退団しました。
守備面については、元々は捕手出身という経歴もあり強肩が大きな武器でした。巨人在籍時は主に外野手(ライト)として起用されましたが、1988年8月16日の対広島戦ではライト前ヒットを放った打者走者を一塁で刺すという**「ライトゴロ」**の離れ業を披露し、強肩ぶりを示しています。
一方で俊足巧守タイプの選手ではなく、本職ではない外野守備には不安があるとも言われていました。ただし当時の巨人は彼の長打力を生かすため一塁手や指名打者での起用も検討しましたし、持ち前の強肩で弱点を補うプレーも見られました。総じて、打撃に特化した長距離砲タイプの助っ人選手であり、爆発的な長打力と引き換えにミート力や守備走塁面で多少の粗さがあったと言えるでしょう。
呂 明賜と平野ノラとの関係性・エピソード
平野ノラの電話の受け応え
— かずchan(幅推し) (@chanrikachanott) April 8, 2017
「もしもし?呂明賜?」
が1番好きです#どうでもいい告白 pic.twitter.com/3J5FEKByDn
80年代バブル期のネタで人気のお笑いタレント・平野ノラさんは、その芸風の中でプロ野球選手の名前をしばしばネタに取り入れています。中でも**「もしもし?呂明賜?」というフレーズは彼女の持ちネタの一つとして知られており、大型携帯電話を肩に当ててバブリーに電話に出るギャグの中で呂明賜さんの名前を呼ぶ場面があります。
平野ノラさんにとって呂明賜選手は「バブル時代の象徴」として引き合いに出される有名な存在であり、その名前が出るたびに当時を知る野球ファンからは笑いと懐かしさが巻き起こります。実際にお二人が番組で共演した記録はありませんが、呂明賜さんご本人も日本のメディアにたびたび登場することがあります。
2016年放送のTBS系バラエティ『水曜日のダウンタウン』では、“若手タレントはレジェンドをなんとなくでも礼儀で挨拶してしまう説”のドッキリ企画に仕掛け人役で呂明賜さんが出演し、久々に日本のテレビに姿を見せました。このように現在でもバラエティ番組や芸人のネタで名前が挙がるなど、日本の野球ファンの間で呂明賜**という名前は一種のレジェンド的なネタとして語り継がれているのです。
呂 明賜の現役時代の応援歌とその人気
巨人時代、呂明賜選手にはファンから熱い応援歌(ヒッティングマーチ)が贈られていました。初登場から大活躍したことで期待も大きく、応援団は彼専用のテーマ曲を用意します。その歌詞は非常にわかりやすく力強い内容で、**「ミラクルバット火を噴け ミラクル男で行け 虹のアーチ叩き込めよ どでかい一発」**というものでした。
名前の「呂」にちなみ途中で「ろ!ろ!ろ!」という掛け声が入るのも特徴的で、まさに奇跡を起こす男=ミラクル男としてスタンドから大合唱で後押しされたのです。この応援歌は「ミラクルバット」「虹のアーチ」「どでかい一発」といったフレーズが象徴するように、呂明賜選手の豪快なホームランに対するファンの期待をそのまま歌い上げたものでした。1988年当時、東京ドームのスタンドでは彼が打席に立つとこの応援歌が大音量で響き渡り、ファンは一体となって「火を噴け!」コールで盛り上がりました。
その甲斐あってかデビュー当初に次々とアーチを架けたため、この曲はより一層ファンの心に刻まれることになりました。
応援歌「ミラクル男で行け~」のメロディーはその後も語り継がれ、巨人の応援歌史の中でも印象深い一曲として知られています。実際、1991年にはこの曲を収録した巨人選手別応援歌のCDが発売され、後年には別の主力選手の応援歌に流用されたこともありました(坂本勇人選手の応援歌に一時期メロディーが活かされたとの情報もあります)。当時を知るファンにとっては、今でも「呂明賜」という名前を聞くとこの**「ミラクルバット火を噴け!」**のフレーズと軽快な応援メロディーが脳裏によみがえるという人も多いでしょう。
それほどまでに、この応援歌と共に駆け抜けた1988年前後の呂明賜選手の活躍は強烈で、ファンの心に残るものとなったのです。
まとめ呂明賜の現在?読み方?弱点?平野ノラ?応援歌
台湾出身のスラッガー呂明賜さんは、巨人での華々しいデビューとその後の苦闘、そして現在は指導者として歩む姿まで非常にドラマチックな野球人生を送っています。
現在は台湾で後進を育てつつ、日本のファンからも今なおその名を親しまれる存在です。漢字の読み方から応援歌、バラエティでのネタまで幅広い話題に事欠かない呂明賜さんですが、根底にあるのは「野球を愛し、本塁打に夢を乗せた伝説のスラッガー」という揺るぎない事実でしょう。
今後も日台の野球交流の架け橋的存在として、そして往年のファンにとっての懐かしの英雄として、その名前は語り継がれていくに違いありません。
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