阿部慎之助の若い頃!安田学園高校時代と中央大学時代!幼少期!レジェンド!伝説!ルーキー!コンバート
阿部慎之助がとうとう40歳。おめでとうございます。時代の流れを感じます。坂本・菅野・小林・岡本らと並んでチームの顔です。
最高の笑顔見せてくれ慎之助明るく逞しく 導けよ永久に
【 #巨人 】阿部慎之助作戦コーチから亀井善行に「CSから下克上目指して1日でも長く背番号9亀井を見届けてあげたい」 https://t.co/bzlo40jD0d #巨人 #ジャイアンツ #giants pic.twitter.com/1xaFjWSRnv
— スポーツ報知 プロ野球取材班 (@hochi_baseball) October 21, 2021
阿部慎之助の若い頃!安田学園高校時代と中央大学時代!幼少期はどんな活躍?
打って守れるチームの顔
出身地 千葉県浦安市
生年月日 1979年3月20日
身長体重 180 cm 97 kg
投球・打席 右投左打
ポジション 捕手、一塁手
プロ入り 2000年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 2001年3月30日
年俸 1億6,000万円(2019年)
経歴 安田学園高等学校→中央大→読売ジャイアンツ (2001 – )
幼少期は?
阿部慎之助の名前の由来は「池畑慎之介☆」さんのファンだったお母さんが名づけました。
幼少期の写真も今の阿部慎之助そのまま。
またお父さんの元チームメイトという縁もあり掛布雅之に憧れていました。今年のキャンプではエールも送る。
掛布「敵のチームを応援するのは失礼な話なんだけど、子供の頃から知っているので、最後まで頑張ってもらいたい」
安田学園高校時代
読売ジャイアンツ 阿部慎之助選手の高校時代!
捕手に復帰した阿部選手ですが、やっぱり存在感があり、頼もしいです。そんな阿部選手の高校時代を当時の中根監督が教えていただきました。https://t.co/zZSlTwLeTN pic.twitter.com/L6U79Y5SR9— 高校野球ドットコム (@5589com) February 8, 2016
高校は東京(野球場は鎌ヶ谷)にある安田学園の野球部に所属。第一志望の高校に不合格となり「高校時代は良い思い出がない」と語る。
ただその頃から野球センスと意識の高さは健在で「阿部のためにネットの位置を2m上げる」エピソードや「プロ野球選手に俺はなる」と発言をしていました。
高校受験の失敗がなければ、野球人生は大きく違うものになっていたかもしれない。第1志望だった高校にまさかの不合格でした。
2次募集をしていた安田学園(東京)に、何とか滑り込んだのです。
同校の中根康高監督(当時)は、中学時代の阿部のことをほとんど知らなかったそうです。
もともと阿部が志望していた学校の野球部の監督と知り合いで、その人からどんな選手か聞いていた程度ででした。
阿部のプレーは入学直前に初めて見たという。「体つきはちょっとポチャッとして、柔らかいキャッチボールしているなという感じ。バッティングはミートのうまい選手だなという印象」。
他の選手と比べてずば抜けてうまい、というほどではなかった。
「ミートは柔らかくうまかったんですが、飛距離は大したことがありませんでしたね。ただ、意識が他の選手とは全然違いました。阿部の同級生から聞いたんですが、入ったときからプロになりたいと言っていたようです」(中根康高)
部当初はレギュラーではなかったが、阿部のプレーは堂々たるものだった。控えメンバー中心に組んだ練習試合で、捕手として試合に出場。上級生の野手に向かって「レフトこっち」「ライトこっち」と守備位置を指示していた。中根監督は「普通だったら上級生に交じったら気後れしてできない。ちょっとモノが違うなと思った」と振り返る。
96年7月6日、東京学館との練習試合で、阿部は攻守において素晴らしいプレーを連発します
「肩の強さ、コントロールは高校生では頭抜けている。大学、社会人を入れても5本の指に入るのでは。足は遅いが、フィールディングも優れている。送球の形、地肩の強さも屈指。打は馬力で押すプルヒッター。パワーは感じるが、バットをムチのように使うしなやかなに欠ける(上体で打ちに行くため)」
評価欄には最高評価の「☆」印がつけられていた。しかし、入学当初の印象は3年生の頃とはいささか違ったようだ。
安田学園はJR両国駅に近い墨田区にあるが、野球練習場は遠く離れた千葉県鎌ケ谷市にある。野球部の全体練習は午後4時ごろとちょっと遅めのスタートで、午後9時ごろまで。その後に行う個人練習で、全体練習で足りない部分を補っていた。
中根監督は「1年生なんかは体力的にも精神的にも大変なので、早く帰っちゃうが、慎之助は最後まで残ってやっていた」と思い返す。その努力の成果は徐々に実を結び、1年生の夏の段階ですでにレギュラーを奪取。上級生にうまい捕手がいたため、ポジションは三塁手だった。甲子園予選の東東京大会で敗れ、3年生が引退してから正捕手に座についた。
個人の能力はみるみる上昇する一方、甲子園とは縁のない高校生活だった。3年生の夏もチームは東東京大会でコールド負けでした。
中央大学時代
中央大学の後輩でもある阿部慎之助の試合を見てプロ野球ニュースで号泣する高木豊さん😢
高木豊さんって毎年この時期くらいにある選手の引退のとかを見ると必ず泣くよね(笑)
自分も選手の引退系には弱いからわかる。#ありがとう慎之助 pic.twitter.com/2xwpaTMFQh— 🇩🇪⭐♦️⚽SHIMIZU⚾🦊 (@H8iroshimi0625) September 27, 2019
強豪の中央大学に進学する。1年の時から日本代表に選出されるなど注目選手に。才能が世間に見つかりました。
ジャイアンツを引っ張る兄貴分の才能はこのころに培われたのか。後輩にも慕われていたみたいです。
「すごく物静かでしたね。人見知りで、グラウンドにいる時はあまりしゃべらなかったという印象です。アマチュアの選手同士で固まっている時はワイワイやってましたが、プロの中に1人で入ってしまうと喋らなかった
ヤクルトでバッテリーコーチを務めた野球解説者の野口寿浩氏は、プロ入り前からそのとてつもない打撃センスに驚かされたという。
「阿部が大学生だった当時、アマチュアの有力選手をプロのキャンプに派遣するという制度があったんです。確か大学3年生だったと思いますが、阿部は当時、私が所属していた日本ハムのキャンプに来て、シート打撃で岩本(勉)からバックスクリーンへ特大のホームランを打ちました。これはすごいなと驚きましたね。2週間くらい一緒に練習をして、守備はまだまだだなと思いましたが、バッティングは凄いものがあるなと。大学生が、その当時エースだった岩本から、まだ調整段階とはいえ特大のホームランを打った。その一打があまりにも鮮烈で、プロに入ったらとんでもない打者になるなと思いました」
「例えば、3連戦の頭にミーティングをすると、その中で『今回状態がいい選手』として必ず名前が出てくるのが阿部でした。『状態が悪い時はあるのか。いつもいいじゃないか』と。そういう選手でした。ストライクゾーンの中だけで勝負しようと思ったら絶対に抑えられないバッターでしたね。ボールゾーンを使ったり、足を動かすようにして、時にはひっくり返したこともありましたが、どうにかしてボールを球を振らせかった。でも、ボール球をヒットにされたこともありました。ローボールヒッターとかハイボールヒッターとか、インコースがうまいとかアウトコースがうまいとか、そういうくくりの中には入らないバッターでした。ストライクゾーンの中は大体ヒットにしてしまうバッターでしたね」
レジェンド!伝説!ルーキー!コンバート
20代のプロ野球選手が憧れた選手に阿部慎之助を上げる選手は本当に多い。
巨人 丸佳浩
「松井秀喜さん。あと僕が小学校6年生の時かな。阿部慎之助さんが巨人に入団されました。僕はソフトボールをやっていたんですけど、キャプテンで背番号が10、右投げ左打ちで捕手だったのでピッタリで。東京ドームで阿部さんのリストバンドをつけて応援していました」
DeNA 上茶谷
子どものころは巨人ファンでした」と告白。夏休みなどに親戚らと一緒に上京し、東京ディズニーランドや東京ドームに行くのが楽しみだったという。当時、熱烈に応援していたのが、巨人の4番打者だった阿部。
ルーキー時代
一瞬誰か分かりませんでした。2001年にはジャイアンツに入団。
当時は清原軍団にかわいがりを受けていたと噂がありましたが、裏ではとても優しかったそうです。
01年の入団当初は清原軍団に“かわいがり”も受けたが「怖くはない。表向きは番長とかいわれていたが、僕らにもやりやすいように気遣ってくれた先輩なんで余計に残念です」と惜しんだ。
捕手からコンバート
打てる捕手の代名詞だった阿部は2014年の8月ごろから一塁手と捕手の併用となり、2015年には一塁手にコンバートとなりました。
きっかけは2014年の開幕前に首痛を発症したこと。頸椎(けいつい)椎間板ヘルニアだった。もともと怪我も多かったので肩の痛みも限界に来ていました。
2000本安打
2017年8月13日にはプロ野球通算2000本安打を達成。名球会の仲間入りを果たしました。
捕手復帰
現在はリハビリ中ですが、2019年は原監督に直訴し捕手に復帰しました。原辰徳監督は「慎之助はキャッチャー」と期待していたのでリハビリから戻ってきて欲しいものです。
まとめ
40歳おめでとうございます。400本塁打もあと数本です。「最高でーす」を聞かせてくれ。
コメント