イチローの愛工大名電高校時代!ドラフト評価!通算の成績や練習!伝説のピッチャー!打率や睡眠時間!動画あり

イチロー
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イチローの高校時代についておつたえします。

 目標は甲子園出場ではなく、世界を見据えて野球をしていこうという考え方の高校球児が甲子園に姿を現しています。

 愛工大名電の鈴木一朗だ。その後にプロ野球オリックスで活躍して、やがて、宣言通りに海を渡ってメジャーで活躍することになるイチロー選手である。

イチロー高校時代
イチロー高校時代


 イチローのいた愛工大名電は、イチローが2年生の時に2年ぶり4回目の夏の甲子園出場を果たしている。この時はエースが伊藤栄祐で後にドラフト5位指名を受けて近鉄入りしている。

ヨシラバー
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イチローの愛工大名電高校時代の通算の成績や練習!伝説のピッチャー!打率や睡眠時間についておつたえします!この記事ではイチローの高校時代の貴重な動画もありますよ。

名前 イチロー (本名 鈴木 一郎)Ichiro Suzuki

出身地 愛知県春日井郡豊山町

生年月日 1973年10月23日(46歳)

身長 180cm

体重 72kg

ポジション 外野手

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愛知工業大学名電高校時代の成績!天才・伝説

イチローの愛知工業大学名電高校時代の成績!天才・伝説
イチローの愛知工業大学名電高校時代の成績!天才・伝説

愛工大名電時代から地元では有名な選手で、愛知を代表する名門野球部において1年時からいきなりレギュラーを獲得(ポジションは三塁手で打順は主に1 – 3番)しました。

イチロー選手は中学の時点で数々の強豪校から誘いを受けており、それは地元の東邦高校や中京、亨栄など、そして県外からは当時の高校野球の象徴出会ったPL学園からも勧誘を受けていた。

甲子園常連校でもあったが、愛工大名電の監督、中村監督がそれまで13人のプロ野球選手を輩出していること、そして選手起用にも配慮があり、

無理させず故障させない環境作りをしていたことにより、愛工大名電に進むことに。

愛工大名電高校時代の成績
愛工大名電高校時代の成績

天才・伝説となったイチローの高校時代

進学した愛知工業大学名電高等学校に入学した当初のイチローは身長が171センチ、体重63キロでした。まだまだ体格はできていなかったが、身体が大きな先輩たちより、誰よりもボールを遠くに飛ばしていた天才でした。

ずっとバッティングセンターで通い続けていたのは有名な話ではありますが、軟式ボールを打ち続けていたイチロー青年にとって、

高校から変形しない硬式ボールに変わることは捉えることが簡単だったそう。

特に集中力はスバ抜けていたそうで、練習に取り組む姿勢は他の生徒を圧倒していたそうです。

やらされる練習ではなく、自分自身にとって必要な練習だけはかなり意識的に取り組んでいたとのこと。

明確なビジョンがあったイチロー青年は、人に練習するところを見せずに自分の目標に向けて、練習に打ち込む。現在の素晴らしい実績を作ったイチロー選手の原点ですよね。

当時から自分の目標にひた走る、明確なビジョンがあったからこそ、それに集中し、純粋に野球が大好きだからこそ、己の練習に打ち込んだんですね。イチロー選手本人にとって努力と思っていなかったかもですね。

好きなだから、上手くなりたい。ただその純粋な気持ち。当時からやはり天才的な一面。

日々の積み重ねがすごいところにまでたどり着く。

細かいことの積み重ねるのが、とんでもないところへいくただ一つの道、とイチロー選手の名言の中でもあります。

 2年時は夏に愛知大会決勝で稲葉篤紀のいる中京高校を下し、夏の甲子園に3番・左翼手として出場しています。

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イチローの寮生活!睡眠時間

高校時代のイチロー青年にとっ寮生活は地獄だったそうです。

寮生活の鈴木青年は高校時代は寮。現在も行われているかは定かではありませんが、1年生、2年生の時は掃除洗濯の役割があり、練習があとは食事、その後は11時までが自由時間だったそうで、その時間を練習にあてたかったイチロー青年は、11時まで練習をに当て、その洗濯掃除を後回しにして朝早く起きて取り組んでいたそう。

からイチロー青年は高校に入寮して3年生になるまで、午前3時に起きていたとのことです。

厳しい環境の中でも明確な目標に向かって行動していた。イチロー青年は他の生徒と意識レベルから全く違う存在だったそうですね。

イチローの甲子園での活躍は?

イチローの甲子園

 初戦でその大会の優勝校となる南竜次擁する天理高校と対戦し、敗退。自身はヒットを1本打っています。

 3年時は春の甲子園に投手として出場するが、上田佳範擁する松商学園に初戦で敗れ、自身も5打数無安打に終わった。

夏は愛知大会決勝で東邦高校に敗れた。一学年上にチームのエースだった伊藤栄祐がいた。松井秀喜(1学年下)とはこの頃から練習試合を通じて面識があったようです。

イチローの東邦高校の試合

準決勝で東邦高校に敗戦。甲子園出場することはできなかった。

周りの選手が泣いている中、イチロー青年は涙ひとつ流さなかった。

イチロー選手にとって高校時代の目標は甲子園出場ではなく、プロになること。

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イチローの高校時代の通算成績は?二刀流

イチローの二刀流
イチローの二刀流

高校一年 64試合 打率.458 100安打 81得点 5本塁打 79打点 49盗塁

高校2年 48試合 打率.463 90安打 55得点 3本塁打 62打点 31盗塁

高校3年間の通算成績は536打数269安打、打率.501、本塁打19本、二塁打74本、三塁打28本、盗塁131。特に3年時の地方大会での打率は7割以上を記録しています。

イチローの高校時代の脅威の打率
イチローの高校時代の脅威の打率

 あまりの好成績に、当時の監督からは「宇宙人」とも呼ばれていました。

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高校時代は二刀流で投手だったイチロー

イチローの高校時代の投手

愛工大名電高のエースで甲子園で登板していました。

 高校時代は投手だったが、交通事故(自転車での通学中に車と接触している)による怪我が原因で投球フォームが崩れ、野手転向を余儀なくされました。

その後、イチロー青年は高校2年生の時に通勤時中に自動車にはねられ、全治1ヶ月の怪我をおい、当時寮からマイクロバスが出ていたものの、


イチロー青年は足腰を鍛えるために自転車で通勤。その途中に車にはねられ、大怪我ではなかったが、ふくらはぎの肉離れ。

イチロー選手は投手としてプロ入りを目指していた。高校入学後は140キロを超えるストレートを投げ、スライダーも切れ味もよく、三振を狙う投手であったが・・


投手としても有力な選手として当時から名前が挙がっていた

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イチローのドラフトの評価は?

大学野球か中日ドラゴンズか?

父・鈴木宣之は「文武両道を目指し、大学に進学してからプロ入りすべき」と考えていました。

 イチローは「大学で4年間野球をするよりも、高卒でプロ入りしたほうがレベルの高い練習が出来る」と考えて高校からのプロ入りを目指していました。

 その上で1991年のドラフト会議(1991年11月22日)を控え、地元球団である中日ドラゴンズに入団することを希望してました

その理由は中日を幼少期から応援していたことに加え、イチローが好きな打者だった藤王康晴・田尾安志が所属していたためで、父・宣之も「子供のころからドラゴンズのファンだったし、せめて3位ぐらいまでに(中日が)指名してくれればいい」と考えていました。

 しかし、当時イチローを担当していた中日の池田英俊スカウトは、当時投手だったイチローについて「体が出来上がっていないし、プロ野球の投手としてはちょっと物足りない」と評価していた。

 一方、池田はイチローの打撃については高く評価しており、複数回にわたり「1位候補の外野手」と報告書を書いて中日球団に提出し、チーム事情から「左打ちの外野手は不要」と判断されても「3年たてば大型遊撃手になれる」と訴えたが、球団の評価は高くなく、最終的には指名に至りませんでした。

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オリックス指名へ!三輪田勝との関係

一方で1991年の夏の終わり、オリックス・ブルーウェーブの東海地区スカウトだった三輪田勝利が、愛工大名電のイチローについて「面白い選手がいるから見て欲しい」と球団編成部長・中田昌宏に報告し、これを受けた中田はイチローの練習を視察しました。

 中田はイチローのフリーバッティングを見て、「3位で行かないと獲れない」と主張しました。

 しかし、同年のドラフト会議では1位で田口壮(関西学院大学)を、2位で萩原淳(東海大付属甲府高校)の指名を予定しており、「3位以下も大学・社会人の即戦力投手を指名すべき」という声が多かったため、イチローの評価は5位ないし6位程度でした。

 結局、3位指名選手はオリックスが囲っていた本東洋(三菱重工長崎)で決まっていたため、当時のスカウトだった当銀秀崇は「イチローは4位まで残っていないだろう。中日が取りに来るかもしれない」と考えていました。

 三輪田はドラフト会議前日のスカウト会議で「イチローは4位までに指名しなければ絶対に取れない」と強硬に主張します。

 結局、スカウトたちは中日など他球団の動向を探るため、会議当日午前までに他球団のスカウト・関係者から情報収集した結果、「イチローは4位までに指名しなければ中日に取られる」と判断し、当日にイチローの4位指名を決定となりました。

 なおドラフト会議前日には、オリックスと阪神タイガースがそれぞれ、(指名順位までは明かさなかったが)宣之に対しイチローを指名する旨を連絡していたほか、日本ハムファイターズのスカウトも会議前にイチロー側に対し「逆指名してくれませんか」と申し入れていたが、宣之は「高校生としては生意気な行為になるから」と申し出を断ったそうです。

結局、オリックスは12球団で最初に4位指名をできること。

中日を含めた他11球団はイチローを指名しなかったため、オリックスの単独指名となりました。

 このような経緯もあり、三輪田の親族によれば、イチローは三輪田の死後、墓参りを毎年欠かしたことがないといいます。

イチローはドラフト会議当日、意中の中日ではなくオリックスから指名されたことを倉野光生コーチから聞かされたが、後に「オリックスということで戸惑いはあったが、自分を必要としている球団があったということだけで、とても嬉しかった。オリックスに入ることにためらいはなかった」と回顧しています。

 吹上流一郎 (1995) は「イチローは中日に指名されなかったことを心から残念がったが、イチローを指名しなかった中日側も以後、スカウトの間でお家騒動に発展した。(1995年時点で)前中日監督・星野仙は『ウチ(中日)は投手としての感触だけでしか(イチローを)見ていなかったんだ。あれは大失敗だったよね。イチローの教訓はウチのこれからのスカウティングに生きてくるはずだよ』と言っている」と述べています。

ドラフト会議翌日、三輪田はイチローの実家にあいさつに訪れました。

 父・宣之は、入団については中村監督に一任したが、契約についてのみ「前年、イチローの先輩がドラフト5位(年俸400万円)で近鉄バファローズに入団しています。

 イチローはドラフト4位なので、(年俸面での待遇は)5位との差を少しでもつけてほしい」と要望しました。

 これを受けてオリックス球団は、1年目のイチロー(登録名:鈴木一朗)の年俸を430万円に設定し、契約金は4000万円となりました。

 ただし契約金の約半分が税金として徴収されたため、宣之は残る2000万円分を「息子の退職金の先払い」として貯金に回している

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まとめ


小さなことでも、毎日続けることの大切さ 彼は高校時代の3年間、たった10分の素振りを毎日続けました。

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