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堀内恒夫監督の暗黒時代エピソード!巨人!清原和博との関係!2005年暗黒時代!評価と成績?老害!

堀内恒夫の監督時代は?成績は?

読者の質問に高確率でなんでも答えてくれたり、若手有望選手への暖かいエールがなんかいいですよね。今では好意的にみる方が多そうですが、監督時代はすごい叩かれぶりでしたね。

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目次

堀内恒夫監督の巨人でのエピソード!清原和博との関係!2005年暗黒時代!評価と成績?老害!

山梨県出身で巨人一筋の経歴です。1965年のドラフトはえもやんこと江本孟紀、藤田平や鈴木啓二と超豪華ですね。現役時代はV9のエースとして活躍。通算200勝で名球会入りもしています。現役時代のあだ名は「悪太郎」でした。

ただ、韓国時代は暗黒時代といわれています。

名前 堀内恒夫(ほりうちつねお)
出身地 山梨県甲府市
生年月日 1948年1月16日(70歳)
身長 体重 178 cm 73 kg
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1965年 ドラフト1位
経歴 甲府商業高等学校→読売ジャイアンツ (1966 – 1983)
監督・コーチ歴 読売ジャイアンツ (1982 – 1985, 1993 – 1998, 2004 – 2005)

現役時代はエース的存在の堀内さんですが世間ではとても叩かれていました。

前任が原辰徳だったから?

1年目に優勝をしたにも関わらずリーグ3位で辞任してしまった原監督にはファンも好印象だったのでこれはあると思います。就任会見で「青天の霹靂!」と語っていましたがこれも嫌味に聞こえたのかもしれません。

「悪太郎」と言われるほどやんちゃだった現役時代

現役時代は大物ぶりで記者を困らせるほどで、ジャイアンツ選手寮で門限破りの常習犯だったそうです。高卒入団なので若気の至りというのもあるかもしれませんね。

NEWSポストセブン
堀内恒夫氏 王貞治氏に殴られた巨人寮で過ごした思い出語る  現在参議院議員として活躍する堀内恒夫氏は、読売巨人軍が1965年から1973年まで9年連続してプロ野球日本シリーズを制覇した時代を支えたエース投手だった。堀内氏は輝か...

清原和博選手との関係・仲!ハイタッチ拒否事件?

2年目の2005年に攻めのチームから守りのチームへと大きく変えようとしました。ただ主力選手のポジション・打順の変更で反発を招いてしまいました。中でも清原和博との確執は有名で、一塁手のポジションを一時期清水隆行に奪われかけますが、清原はこれに激怒しフロントに直談判。結局開幕戦で清原和博を4番ファーストで起用することになりました。またローズとの確執も有名で、本来と違う守備位置のセンターにローズが守ることになりこれに激怒。

清原和博とハイタッチ拒否事件?

2005年8月4日に広島市民球場で行われた広島戦で、試合前に山本ヘッドから清原に「打順は7番」と伝えられます。清原は激怒し携帯電話をかけながら「今日な、7番やで! 7番! 阿部(慎之助捕手)より下や!」と聞こえるように話していたそうです。
この試合で本塁打を放ち、ベンチ前で迎えた堀内監督や選手、コーチの出迎えを完全スルー。清原は球団広報を通じて「怒りの一発や!」とコメントしていました。清原の味方が多かったのでファンが同情したのかもしれません。
その後も確執は続き、清原さんのトークショーで「巨人もまとめれんかったヤツが、何が国会議員じゃ!!」と冗談交じりに話していたそうです・・。

内海哲也との関係

「好きとか嫌いとか~」

清原さんとの確執も噂されていましたが、好き嫌いではなく根拠があったそうです。ただ伝わり辛かったかもしれませんね。

好きとか嫌いとか、そういう感情で選手を使えればどんなに楽だろうなあ。感情で選手起用をしてたら勝てるものも勝てなくなるだろ。そういうことを言う人たちは、この世界の厳しさを分かっていないってことだ。()

研究熱心

現役・コーチ時代から論理的だったそうです。新聞記事を切り抜いて研究していたそうです。

気になる記事は切り抜いてスクラップこれ現役時代からの習慣なんだよ。俺が現役の頃は新聞から相手チームの情報を得たりしてた。調子がどうのとかは数字を追っていけば自然と見えてくるしその他にも怪我をしてるとかさ。(ご本人アメブロより)

野菜を配る?

言うことを聞いてくれない選手らに対して野菜を配ったらしいのですが、ロッカーの中で腐らせてしまう事が多発。切ない。。小久保裕紀は「もっと会話して欲しい」と助言したとか。(アサヒ芸能ソース)https://www.asagei.com/excerpt/8773

亀井善行にもエール

2005年に入団した亀井にも思い入れがあるようです。

内海哲也とのエピソード

2004年に入団した内海哲也。今では信じられませんが2年目までは二軍生活が長く成績も悪かったそうです。そんな中堀内監督は内海の才能を見抜き、先発ローテーションの一角として登板させました。堀内が去った2006年からは二桁勝利を挙げる活躍を見せ、以後はチームのエースピッチャーへと成長し。内海自身も「今の自分があるのは勝てなくても堀内さんが使ってくれたおかげです」と堀内に感謝しているそうです。

まとめ

少し誤解されやすいのかもしれませんね。今後もアメブロに期待!

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yoshilover'sblogプロ野球好きの管理人のヨシラバーです。!ブログは2017年からやっているよ!住まいは東京です。東京ドームの近くです。スポーツを見にちょいとが高じて知識はほぼ専門家です。幼少期のころから野球の練習・観戦していたため、長年において積み上げた知識は誰にも負けないと自負しています。目指してた野球選手にはなれなかったため発信する場はありません。プロ野球への思いを発信する場としてまたそれが皆様の知識として役立てることができればと思ったことが、このメディアを起こした理由です。

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 誰がなんと言おうと自分を貫き通す堀内さんに共感します。大物だから配慮とかで何も言わないとかでなく、チームを見たら断行しなければならない事もある。監督時代は種まきだけに終わってしまった感があり、水やり、花咲迄見て欲しかった。藤田監督は優れた監督でしたが、駒が二軍にあった。あの頃は巨人軍集中だったから単純に比較とはいかない。

  • 巨人史上最悪のシーズンとも言われたけど、今にして思えば、決して堀内監督だけが悪いわけじゃない。清原だって全てが悪いわけじゃない。
    尚成が言っていた通りで、当時は現場もフロントも全部バラバラで収拾つかない状態だったし、誰が監督しても難しかったと思う。
    小久保は「監督だけのせいにもできるけど、実際にプレーするのは僕達選手だ」とコメントしていたし、内海も亀井も感謝のコメントを残していたから、気の毒なところはあるよ。

    苦言を呈する巨人OBは多かったけど、藤田さんだけは最後まで盾になって、守ってくれたんだよな。
    ノムさんの「一番大切なのは、どん底の時、誰がそばにいてくれたか」がまさにこれだと思う。

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