巨人・原辰徳の成績は?現役時代の通算生涯の打撃?タイトル!ホームランの数!全盛期!ポジション!守備位置!記録!原監督
原辰徳は監督としての実績は説明せずとも、歴代でも名将と言われるほどの活躍をしています。ただ、現役時代のの成績はどうだったのでしょうか。
80年代~90年代半ばの巨人であり、プロ野球を代表する選手でした。
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原辰徳の成績は?現役時代の通算生涯の打撃?タイトル!ホームランの数!全盛期!ポジション!守備位置!記録!原監督
出身地 神奈川県相模原市(現在の相模原市南区)
生年月日 1958年7月22日
身長 181 cm
体重 88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手、外野手、一塁手
プロ入り 1980年 ドラフト1位
初出場 1981年4月4日
最終出場 1995年10月8日
原辰徳の経歴は?
選手歴
東海大学付属相模高等学校[3]
東海大学
読売ジャイアンツ (1981 – 1995)
監督・コーチ歴
読売ジャイアンツ (1999 – 2003, 2006 – 2015)
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現役時代は!ポジション・守備位置!
1981年
開幕戦に6番・二塁手で先発出場します。三塁手のレギュラーであった中畑清の故障により、アマチュア時代からのポジションである三塁に収まります。空いた二塁には篠塚利夫が入り、中畑は一塁で復帰し、内野のレギュラー陣が固まったのです。
シーズン後半には疲労から成績を落としてしまったが、最終的には打率.268、22本塁打、67打点の成績を収め、新人王を獲得した。
1982年
本塁打数を33に伸ばし、最多勝利打点を獲得。本塁打は2本差、打点は3打点差で、共に掛布雅之に次いで2位であった。
1983年
初めて打率3割を記録。打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献し、MVPに選ばれました。
1986年
前年を上回るペースで本塁打を記録していたが、津田恒実の直球をファウルした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。この骨折は「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に自らが発言する程の影響があった。
1987年、1988年
2年連続で3割30本塁打を記録。特に1988年は本拠地が東京ドームになってチーム本塁打が激減する中、最後までホームラン王争いに加わった。
1989年
左翼手にコンバートされる。同年、新人時代から9年連続20本塁打以上のプロ野球新記録を達成しました。
1990年
開幕戦で脇腹を痛め戦線離脱し、一時は任意引退公示されたが、最終的には打率3割を達成し、チームの2年連続リーグ優勝に貢献した。レギュラーシーズン127試合目となるナゴヤ球場での中日戦において3本塁打を放ち、10年連続20本塁打を達成。
1991年
入団以来11年連続20本塁打の日本記録更新と年間犠牲フライのリーグ新記録を達成し、2年連続ベストナインに選出される。
1992年
一塁手にコンバート。当初三塁への復帰も検討されていたが、その背景には、不安定な左翼守備とその影響で打撃成績が下降したこと、またすでにファンの間で「原=三塁」のイメージが定着しており、外野手転向によってそれが損なわれていたことなどの理由があった。
1993年
三塁手に復帰。5月2日には4番出場が通算1000試合に到達した。しかし、複数個所の故障に悩まされ打撃不振に陥り、プロ入り以来初の規定打席未達に終わりました。
1995年に現役を引退しました。
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原辰徳監督の現役時代の通算成績は?
・1981年 率.268 本22 点67
・1982年 率.275 本33 点92
・1983年 率.302 本32 点103
・1984年 率.278 本27 点81
・1985年 率.283 本34 点94
・1986年 率.283 本36 点80
・1987年 率.307 本34 点95
・1988年 率.300 本31 点81
・1989年 率.261 本25 点74
・1990年 率.303 本20 点68
・1991年 率.268 本29 点86
・1992年 率.272 本28 点77
・1993年 率.229 本11 点44
・1994年 率.290 本14 点36
・1995年 率.201 本6 点15
*通算成績 安打数1675 本382 点1093
*タイトル 打点王:1回 (1983年)
タイトルが打点王だけなのはなぜ?
重圧
3番に左のクロマティがいて5番左の吉村がいたから原も活躍できたと思います。
ただ、クロマティも吉村もけがをしてしまい、ピッチャーは原辰徳に集中して投げることができるようになってしまったのが、かわいそうでした。
ケガなければ吉村が4番になってたでしょうが、比較するのは難しい。
結構4番原成績良いんですよ。チャンスに弱いとか言われてるがそこそこ打ってます。
圧縮バットの禁止
原選手というのは天性のHRバッター(パワーでは無く飛距離のでる打球の角度で打てる)でしたが、彼の入団した年に圧縮バットが禁止されたため、時代と共に彼のようなタイプの打者は中距離打者へと変わっていくはずでした。ですが「巨人の四番」という肩書を与えられたために、彼はHR王を狙わないといけない立場だったので、大変な立場だったとは思います。
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まとめ
原辰徳は実働15年ですから、現役時代がとても短かったです。また甘い顔のマスクのせいで当時の山本浩二や掛布、落合などと比較しても、圧力感がなく、成績はそれほどのこしていないとおもってしまうところがあったと思います。
ただ、このように通算成績をみていると大変立派なものであり、巨人を代表する4番バッターであったのは間違いありません
また、勝利打点王を2回、打点王を1回とっていることからも、チャンスに弱いってのはマスゴミにそういう印象植え付けられてただけでありますね。
よくいわれるのですが、吉村が怪我をしなければ原辰徳はもっと活躍ができたのではないのでしょうか。
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