広島東洋カープの守備の要として活躍する菊池涼介選手。
その華麗な守備からは想像もつかないような、実は厳しい野球人生を送ってきました。
東京都東大和市で生まれ育った菊池選手の幼少期には、父・康夫さんの存在が大きく影響していました。
「巨人の星」の星一徹を彷彿とさせる厳格な指導で、小学2年生から野球の基礎を徹底的に叩き込まれたのです。
練習が終わらなければ遊びに行けない―。そんな幼少期を過ごした菊池選手は、武蔵工業大学第二高等学校(現・東京都市大学塩尻高)、そして中京学院大学へと進学しました。
地道な努力を重ねながら、プロ野球選手への夢を追い続けました。今回は、広島カープの守備職人として知られる菊池涼介選手の知られざる生い立ちと、その成長を支えた家族の物語に迫ります。
東大和市で育まれた野球への情熱が、どのようにして日本を代表する二塁手を生み出したのか―。その軌跡をたどってみましょう。
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 菊池 涼介(きくち りょうすけ) |
生年月日 | 1990年3月11日 |
出身地 | 東京都東大和市 |
身長/体重 | 171cm/71kg |
ポジション | 内野手(二塁手) |
投打 | 右投右打 |
血液型 | A型 |
経歴 | 東大和第三中→武蔵工大二高→中京学院大→広島(2011年ドラフト2位) |
背番号 | 33 |
プロ初出場 | 2012年6月30日 |
主な記録 | • NPB記録:シーズン535補殺 • シーズン守備率10割(無失策) • 569連続守備機会無失策 • 10年連続ゴールデングラブ賞 |
愛称 | キク |
菊池涼介の実家!兄は啓介?父は康夫?実家!地元!東大和市を調査
菊池涼介の実家は東大和市
菊池涼介の実家は東京都東大和市です。東大和市(ひがしやまとし)は、東京都の多摩地域北部に位置する市です。東大和第六小学校2年生で野球を始めました。15歳の時に東京都東村山市に移住します。
菊池涼介の中学時代
中学時代は地元の東大和リトルシニアでプレーしました。
菊池選手が15歳の時に東京都東村山市に移っており、菊池選手は地元の英雄・志村けん(しむら・けん)さんの大ファンです。
中学まで東大和市で暮らした後に、シニアの監督の勧めで長野県塩尻市にある武蔵工業大学第二高等学校へ進学しました。中学までしか東大和市にしかいなかったようです。
ただ中学時代に実家の近くの江藤選手の実家でサインをもらいにいったのは有名なはなしですよね。
菊池涼介の父は菊池康夫
菊池涼介のお父さんの菊池康夫さんは巨人の星の〝星一徹〟にの様な方らしいです。鈴木誠也の父もそうとききますけど、東京のお父さんって感じなのでしょうか。
小学校から帰ってきたら野球の練習を課され、練習が終わらないと遊びに行くことができませんでした。プロ野球選手の父ってとても子供に野球を教えていますよね。父は医師だったとの噂盛りあります。
今の時代はへったのかもしれませんけどね。
菊池涼介が束縛が嫌で、高校からは実家を飛び出したとも言われています。ただ、推薦はもらったのは事実なのですが、なぜ地元を離れたかは不明ですよね。菊池涼介は、武蔵工大二高の大輪監督の紹介で、特待がある中京学院大へ進学します
菊池涼介の兄は菊池 啓介?
お兄さんがいて、菊池啓介さんといいます。
内山田洋とクール・ファイブが歌う「東京砂漠」が好きだったそうです。兄さんの影響を受けて昭和が好きなようです。
職業などの情報がありませんが5歳年上であり、ぎりぎり昭和うまれかもしれませんね。
菊池涼介はタナキクマルの1989年世代、実際には1990年うまれですが、兄は1985年か1984年でしょうね。
菊池涼介のドラフトの評価!大学時代
菊池涼介のドラフトの評価
2011年10月27日に行われたプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから2巡目指名を受けて、契約金7000万円、年俸1000万円(金額は推定)で契約しました。
指名の直後には、自身と同じ内野手出身で当時の一軍監督・野村謙二郎が現役時代に着用していた背番号「7」を希望していたが、背番号は「33」となりました。
中京学院大学時代
高校卒業後に、東海地区大学野球連盟岐阜学生リーグに所属する中京学院大学へ進学しました。
菊地だが、アマチュア時代は決して有名な選手だったわけではない。
高校時代には目立った実績はなく、大学は岐阜県学生野球リーグに所属する中京学院大へ進学します。
吉川尚輝(巨人)が在籍していた’16年に全日本大学野球選手権で初出場初優勝という快挙を果たしているが、全国大会の出場はこの1回だけであり、菊地が在籍していた当時は全国でも完全に無名のチームでした。
フットワークの良さには見るべきものはあったものの良くも悪くもプレーが軽く、全体的に雑な印象が残っている。
バッティングもタイムリーを含む2安打を放ったが、バットの無駄な動きが気になり、この時点では菊地がプロ入りするとは夢にも思わなかった。
日本代表合宿
そんな菊池を見直したのが2年後に行われた大学日本代表候補合宿のことでした。
メンバーには同学年では鈴木大地(楽天)、1学年下では白崎浩之(元オリックス)、高田知季(ソフトバンク)など中央球界では既に名をはせている選手が参加していたました。
その中でも菊池の守備のスピードはフットワーク、ハンドリングとも圧倒的に際立っていたのだです。
菊池は2年春のリーグ戦後にも日本代表候補合宿に参加しており、後にその時に高いレベルのプレーに触れたことが自身の意識向上に繋がったと語っています。
まさにその言葉を裏付けるようなプレーを実践していたのだ。一方でバッティングに関しては2年前と変わらずバットが大きく動く癖が気になり、その年のドラフトで2位指名された時は正直その順位の高さに驚いたが、圧倒的な守備力と大学での成長スピードを高く評価した広島スカウト陣の慧眼(けいがん)は見事という他ない。
中京学院大学時代はショート
菊池涼介は大学時代、ショートを守っていました。
アマチュア時代にショートを守っていた選手がセカンドにコンバートされるケースの理由の1つに、チーム事情があります。
2年生時に日本代表選考合宿に参加し、これが大きな転機となりました。
菊池のケースで言えば、ショートを守らせることも可能でしたし、その能力も十分。とはいえ、ルーキーが、いきなりレギュラーにとって代わることは、簡単ではありません。4年時に再び日本代表候補となり、その後広島東洋カープからドラフト2位指名を受けました。
彼の入団時(2012年)の一軍ショートには梵英心という絶対的な存在がいました。当時は30歳を過ぎた脂の乗り切ったころで、長くそのポジションを守ってきたベテランをコンバートすることは考えづらい。
そこでショートに固定せずに、セカンドもサードも守らせ、内野ならどこでも守れるオールラウンダーという位置付けでスタートしました。
菊池涼介の高校時代
武蔵工業大学第二高等学校(現・東京都市大学塩尻高)に進学しました。
今やプロ球界を代表する二塁手と定評がある菊池だが、「高校時代は目立つ存在ではなかった。特別な指導もしていない」と大輪は言う。徹底して教えたのが、基本的な技術と野球に取り組む姿勢だった。高校時代から基本的な技術が高く、ほとんどミスを犯さない選手として評価されました。
三塁手として活躍するも、春夏の甲子園出場はなしです。
当時から球際に強かったため、高校時代のポジションは強い打球をさばく機会の多い三塁手だったが、春夏ともに全国大会へ出場できませんでした。
まとめ:菊池涼介の実家!父は菊池康夫?兄は菊池啓介?家族?高校?大学時代を調査
いかがでしたでしょうか。
菊池涼介のドラフトの評価?実家!中学・高校時代?東大和市についてお伝えしました。
中学高校とそこまで活躍はしていなかったのですが、ドラフトの評価があがったのは大学時代だったのですね。
菊池涼介選手はFAで巨人ファンで巨人に行くとも噂がありましたが、そこまで東京にたいして思い入れがないのかもしれませんね。
コメント