広島東洋カープの中心選手として、侍ジャパンにも選ばれるなど、輝かしい活躍を見せる坂倉将吾選手。
高い打撃センスと捕手としての能力でファンを魅了する彼の強さの源泉はどこにあるのでしょうか?
この記事では、坂倉選手の知られざるルーツに迫ります。出身地である千葉県酒々井町での少年時代、野球を始めたきっかけ、彼を支えた家族の存在、そして「プロになる」という夢を追い続けた小学校・中学校時代のエピソードを、公開情報やインタビューをもとに詳しく掘り下げ、その人物像を解き明かしていきます。
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 坂倉 将吾(さかくら しょうご) |
所属チーム | 広島東洋カープ |
背番号 | 31 |
ポジション | 捕手 |
投打 | 右投左打 |
生年月日 | 1998年5月29日 |
年齢 | 25歳(2024年4月時点) |
出身地 | 千葉県 |
身長 | 177cm |
体重 | 89kg |
血液型 | A型 |
経歴 | 2016年ドラフト1位で広島東洋カープに入団 |
坂倉将吾の実家出身:千葉県酒々井町

広島東洋カープで捕手や内野手として活躍し、2024年のWBSCプレミア12日本代表にも選出された坂倉将吾選手。彼の野球人生の原点は、千葉県にあります。
酒々井町での少年時代と野球への目覚め
坂倉選手の出身地は、千葉県印旛郡酒々井町(しすいまち)です。これは複数の公式プロフィールや報道で一貫して示されている情報です。1998年5月29日、この町で坂倉選手は生を受けました。
野球との出会いは、ごく自然な形でした。小学校1年生の時、自宅の庭で父親とキャッチボールをしたことが、野球への興味を持つ最初のきっかけだったと、坂倉選手本人がインタビューで語っています。この父親とのボールのやり取りが、彼の将来を方向づける情熱の始まりとなりました。
その後、地元の少年野球チーム「酒々井ビッグアローズ」に入団。本格的に野球の道を歩み始めます。少年時代は、地元のプロ野球チーム・千葉ロッテマリーンズのファンだったことも公言しており、特に当時活躍していた里崎智也捕手に憧れていたそうです。地元チームの試合を観戦し、ヒーローに憧れる、そんな野球少年でした。
地元千葉への思いとライバルとの絆
坂倉選手の故郷・千葉との繋がりは、人との縁にも色濃く表れています。東北楽天ゴールデンイーグルスの藤平尚真投手とは、同じ千葉県出身で、小学校時代からの知り合い、いわゆる「幼馴染」です。
二人の縁は深く、中学時代にはシニアリーグ(※中学生の硬式野球リーグ)の選抜チームでバッテリーを組んだ経験もあります。プロ入り後もその関係は続き、2024年のWBSCプレミア12では、藤平投手も日本代表に初選出。坂倉選手は藤平投手の選出を知り、「そっこー連絡した」と語るなど、その喜びと絆の深さをうかがわせました。再び侍ジャパンのユニフォームでバッテリーを組む可能性も生まれ、ファンにとっても注目のポイントとなっています。
幼少期からのライバルであり、友人でもある存在が同じ故郷にいたことは、互いに刺激し合い、高いレベルを目指す上で大きな力となったことでしょう。彼らの歩みは、酒々井町周辺に若い才能を育む土壌があったことを示唆しています。
現在も、オフシーズンには実家のある関東(千葉)に帰省し、家族や旧友と過ごす時間を楽しみにしていると語っており、故郷への愛着は変わらないようです。
坂倉将吾:プロへの道を支えた家族兄弟両親

坂倉選手の活躍の陰には、ご家族の支えがあったことがうかがえます。特にご両親は、彼の野球人生において重要な役割を果たしてきました。
両親からのサポート:野球の始まりと精神的支柱
父親については、前述の通り、坂倉選手が野球を始めるきっかけとなった庭でのキャッチボールのエピソードがあります。それだけでなく、息子の練習への真摯な取り組みを幼い頃から見守っていたようです。広島ホームテレビの番組「鯉のはなシアター」(2019年放送)での父親の証言によると、「(坂倉選手は)この球が打てなかった、
こういうところがダメだったと技術的なことを一生懸命やっていた。何かを掴めるまで妥協せずにやっていた」とのこと。息子の野球に対する真剣な姿勢を理解し、温かく、時には厳しく見守ってきた様子が伝わってきます。
母親の名前は坂倉朋子さんであることが判明しています。母親は、息子が小学校の卒業文集に書いた「プロ野球選手になる」という夢を覚えており、その夢をずっと応援し続けてきました。
プロ入り後もその関係は良好で、坂倉選手自身が母の日にプレゼントを贈ったり、「お母さん、いつもありがとうございます。まだまだプロ野球選手として甘いところもありますが、しっかり頑張って、いい息子であれるように頑張りたいと思います」とメディアを通じて感謝のメッセージを送ったりする場面もありました。
プロという厳しい世界で戦う息子と、それを支える母親の温かい絆が感じられます。
広島入団時の契約会見では、母親が坂倉選手の笑顔を、当時メジャーリーグに移籍した前田健太投手に似ていると“公認”している、という微笑ましいエピソードも報道されました。
前述のテレビ番組「鯉のはなシアター」では、「坂倉将吾と家族の絆のドラマ」と題し、彼の「芯の強さと柔和な人間性はいかにして培われたのか」を探る中で、その原点として両親への独占取材が行われました。
これらの情報から、坂倉家全体が、彼の成長を精神面、物質面の両方から力強くサポートしてきたことが推察されます。
姉の存在と家族構成に関する情報
家族構成については、坂倉選手にはお姉さんがいることが分かっています。したがって、ご両親とお姉さん、そして坂倉選手の4人家族であると考えられます。
しかし、お姉さんの名前や年齢、職業といった詳細な個人情報については、公表されていません。参照した複数の情報源(報道記事、インタビュー記事、プロフィール情報など)の中では、お姉さんの存在に言及しているものはありましたが、具体的な情報は確認できませんでした。
同様に、父親に関しても、野球を始めたきっかけや息子を見守る姿勢についてのコメントは紹介されていますが、お名前や職業などの具体的な情報は公開されていません。
このように、家族構成(両親と姉の4人家族)は判明しているものの、母親(朋子さん)以外のご家族の氏名や詳細なプロフィールは、プライベートな情報として公開されていないようです。
憶測に基づく情報は避け、現時点で確認できている事実のみをお伝えします。
親元を離れての挑戦と家族への想い
プロ野球選手になるという強い目標を胸に、坂倉選手は中学卒業と同時に親元を離れ、東京の日大三高へ進学しました。高校は寮生活であり、15歳という若さで家族から離れて生活を送ることになります。
これは、彼の野球への強い覚悟を示すと同時に、家族の直接的なサポートから離れ、自立を促される大きな転機でした。彼自身、「中学を卒業してから高校(日大三)も寮だったし、ずっと親元を離れている」と語っています。
普段は一人でいることを好むとしつつも、シーズンオフに関東(千葉)の実家へ帰省し、家族や地元の友人と過ごす時間を楽しみにしているとも述べています。これは、目標達成のために若くして自立の道を選んだ彼の強さと、離れていても家族を大切に思う気持ちの両面を示していると言えるでしょう
。厳しい寮生活と練習に明け暮れる中で、自己管理能力や精神的なタフさが培われたことは想像に難くありません。
現時点(2024年シーズン終了時点の情報に基づく)で、坂倉選手は独身であるとされています。家族との関係は良好で、故郷や家族を大切に思う気持ちが、彼の言動の端々からうかがえます。
坂倉将吾の小学校時代と初期キャリア

坂倉選手の野球選手としての基礎は、小学校・中学校時代に築かれました。
酒々井小学校と「酒々井ビッグアローズ」
坂倉選手が通っていた小学校は、地元の酒々井町立酒々井小学校(しすいちょうりつ しすいしょうがっこう)です。複数の情報源で確認されています。
前述の通り、小学校1年生で少年野球チーム「酒々井ビッグアローズ」に入団。当初は捕手として野球キャリアをスタートさせました。
ポジション変遷と中学時代の活躍
しかし、チーム事情もあり、小学5年生の時には投手へ転向します。その肩の強さを見込まれてのことでした。6年生の時には投手として千葉県大会に出場するなど、早くから才能の片鱗を見せていました。
その後、酒々井町立酒々井中学校に進学。中学では、部活動ではなく、強豪として知られる硬式野球のクラブチーム「八千代中央シニア」に所属します。
ここで、坂倉選手は再び捕手への道を歩み始めます。インタビューによれば、小学校高学年の頃から再び捕手をやりたいという気持ちがあり、シニアチーム入団時に希望を出したものの、当初は先輩選手の存在などから内野を守ることが多かったようです。中学2年生から本格的に捕手としてプレーする機会を得て、中学3年生の春には、八千代中央シニアの正捕手として、リトルシニア日本選手権大会(シニアリーグの全国大会)で見事優勝を果たしました。この全国制覇の経験は、彼の大きな自信となったことでしょう。
幼い頃からの「プロ野球選手」への強い意志
坂倉選手の「プロ野球選手になる」という夢は、非常に早い段階から明確でした。母親の証言によると、坂倉選手はなんと小学校の卒業文集に「プロ野球選手になる」と記していたそうです。
この強い意志は、彼の進路選択にもはっきりと表れています。中学卒業後、高校進学にあたり、彼は甲子園常連校であり、全国屈指の強豪である日本大学第三高等学校(日大三高・東京)を選びます。その理由は、単に甲子園出場を目指すだけでなく、「プロになるため」でした。
周囲からは、日大三高から直接プロ入りした選手がそれほど多くないことから、「プロになりたいなら、違う高校の方が良いのでは?」という声もあったといいます。しかし、彼は「進学した高校の名前ではなく、進学した高校で自分が何をするかが大事だ」と考え、自分にとってプロへの最善の道は日大三高であると信じて、進学を決断しました。
小学校の文集に書いた夢を、中学、高校と一貫して追い続け、その実現のために具体的な行動を選択していく。このエピソードは、坂倉選手が若い頃から並外れた目的意識と決断力、そして強い信念を持っていたことを示しています。
まとめ:坂倉将吾の実家出身や家族兄弟両親や小学校
この記事では、広島カープ・坂倉将吾選手のルーツを辿りました。千葉県酒々井町で生まれ育ち、父とのキャッチボールをきっかけに酒々井小学校で野球を開始。
早くから「プロ野球選手」を志し、中学では全国制覇も経験しました。野球に打ち込む息子を温かく見守り、支え続けた両親と、存在が確認されている姉。
家族の絆と、目標達成のため若くして親元を離れた強い意志が、現在の活躍の礎となっています。故郷・千葉で育まれた情熱と家族への感謝を胸に、更なる飛躍が期待される坂倉選手から目が離せません。
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