巨人歴代監督は?原・堀内・長嶋・王も批判は数知れず!高橋由伸だけじゃない

こんにちは、ヨシラバーです。

巨人の監督は、すべて巨人軍でプレーした選手であり、4番orエースというのが条件と言われてきました。

そして、巨人は常に強いチームであったため、監督を頻繁に変わることはなく、数は他の球団と比べると圧倒的に少ないです

つまりは、巨人の監督はとても責任が重いがやりがいのあるポジションです。

今でも、桑田真澄や江川卓、中畑清、斎藤雅樹、松井秀喜など数々の候補者がいますが、それでも監督になることは難しく、ファンに人気があり、納得し、人徳者でないとなれません。

星野仙一氏が指揮を振るうかもという状況がありましたが、ファンやOBが大批判をして結局は本人はやる気があったものの、なれなかった過去があります。

その重要なポジションで指揮を執った人たちは誰なのでしょうか。活躍はどうだったのでしょうか。

V9以降で巨人になった監督は?

V9時代の監督は野球の神様川上哲治

川上監督が目指したのは、長嶋茂雄や王貞治がいたにも関わらず、スモールベースボールであり、ドジャース戦法を導入します。

読売ジャイアンツは、個々の力よりは、チームとしての団結を優先。

上位打線は、出塁することに専念し、ONが打点を挙げると、投手進含めた鉄壁な守りで、読売ジャイアンツが逃げ切る。

こうした読売ジャイアンツの野球は、確実に勝利を積み重ねました。

1965年から、読売ジャイアンツの V9時代がスタートし、本塁打王と、打点王は王、長嶋の二人が独占し、V9を達成したのです。

ミスタージャイアンツ・プロ野球の長嶋茂雄

長嶋茂雄は球団唯一の最下位も経験

前述のとおり、プレイと共に勝負強さも持っている大人気のスター選手でした。
引退セレモニーでは「我が巨人軍は永久に不滅です」という名言を残し、選手時代長嶋監督の背番号であった3番は巨人の永久欠番となりました。

監督に就任した1期目は、クリーンベースボールを目標に掲げました。前監督の川上が築き上げた確率野球(自らの失策を減らし、相手の失策を誘い、そこにつけこんで勝利するスタイル)を捨て、投、打の力量差がそのまま勝敗につながるという信念のもとにチームを再編したのです。

結果として、1年目は最下位に終わってしまいます。

ただ、日本ハムファイターズから、張本勲を獲得し、加藤初も獲得します。1976年には最下位から一転、リーグ優勝を果たしました。3年目こそ、「長嶋の真価が問われる」という声の中、2位に15ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たします。

ただ、そのあとは勝つことができず、戦後のスーパースターであった長嶋茂雄にも批判があがり、一時政権はあっけなく終わってしまうのです。

2次巨人監督時代の長嶋茂雄は松井秀喜あり

長嶋の監督復帰は翌年に発足を控えたJリーグへの対策という意味もあったとのことだが、そのためになんと松井秀喜をドラフトで獲得します。

監督に復帰した長嶋は長らく「スピード&チャージ」(後にチャージ&チャージ)を標榜。浪人時代に感銘を受けたキューバ野球の実践を目指しました。

そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、落合博満、広沢克己、清原和博、石井浩郎、マルティネス、江藤などを獲得

また、ドラフトでは、高橋由伸、仁志敏久、上原浩治、高橋尚成、二岡などチームの中心を次々と獲得し、圧倒なちからで2000年に優勝しております。

名称となった原はコーチ時代について、「最終的に全て長嶋さんが決断をしていた。無責任のようだけど、3年間自分は座っているだけだった」と話しています。

世界のホームラン王 王貞治

前年リーグ優勝したチームを受け継ぎながら3年間優勝から遠ざかり、世界の王貞治も監督としての資質に疑問を呈する声がファンや評論家からあがります。

また、1985年には自身の本塁打記録に後1本に迫ったランディ・バースに対する敬遠攻めを止めなかったことに対する非難を受けたりもした。

王自身はあまり感じていなかったが若手との意識の断絶もうまくいっていなかったようです。

その中でも監督就任4年目、抑えに回った鹿取義隆と、2年目のエース桑田真澄、復活した江川卓を軸に若手投手陣は躍動し、攻撃面も打撃ベスト10に篠塚利夫、吉村禎章、中畑清、原とクロマティの5人が3割を記録した強力打線であったため、終わってみれば独走でのリーグ優勝しました。

ただ、ソフトバンクでの活躍は有名であるが、「巨人の監督」としての手腕はあまり高くは評価されなかったのです。

巨人の背番号18といえば藤田元司は原辰徳がいた

戦後のスーパースターの後の監督の苦労

藤田監督といえば、師弟関係は原辰徳である。

「長嶋を窓際に追いやった男」という世間の逆風がありましたが、原辰徳がそれをかばったともいえるでしょう。

それでも、絶大な人気を誇る長嶋解任の後任を受けた形だったため、世間の風当たりは非常に強かった

自宅には熱狂的な長嶋ファンから抗議の手紙が殺到し、中には「娘を殺すぞ」と剃刀の刃を入れた悪質な手紙もあったといいます。

それでも、1年目に日本一を達成しても「活躍しているのは、皆長嶋が伊東キャンプで鍛え上げた選手だ」と藤田より長嶋の功績を賞賛しています。

在任中は斎藤雅樹をサイドスローへ転向させたことでも知られています。

褒めるのがうまかった藤田監督は原辰徳も引き継いだ?

就任1年目でリーグ優勝を成し遂げると日本シリーズで近鉄バファローズを下して日本一を達成。

翌1990年にもペナントを制し、リーグ2連覇を達成しています。

同年の日米野球第1戦では全日本チームの監督を務めた(結果は勝利)。監督業は1992年限りで勇退。

短気な性格にも関わらず、選手のやる気を起こさせるのが上手い「誉め上手」の監督でありました。

事実、監督時代は選手を責めるコメントをほとんど言わなかったです。

巨人V9時代のエース堀内恒夫!清原和博との戦い

2003年オフ、原辰徳が突然辞任した後継として巨人監督に就任します。

就任会見では「青天の霹靂。この時期に全く予想していなかったし、大変なことになったなと…」と笑顔で話し、原辰徳のファンの怒りを買ったのを覚えています。

これから巨人の人気は低迷していきましたね。

原政権のコーチ陣は全員去り、巨人の選手が少ない首脳陣にも、堀内は「人間的に信頼でき、技術があり、動けるコーチを選んだ。ようやく堀内丸がスタートできる」と語っています。

2004年に史上最強打線といわれながら、優勝ができなく、清水を一塁手にコンバートするという構想だったが、清原が球団に直訴、堀内自身も球団フロントの意を汲み、一転して4番一塁清原で開幕を迎えることになりました。

しかし、チーム防御率は2年連続で球団のワースト記録を更新してしまいます。

チームはBクラスに低迷し、堀内の采配を批判する記事が後を絶ちませんでした。

終盤はやや盛り返して5位となり、30年ぶりの最下位こそ免れたものの、球団シーズンワースト記録となる80敗を喫しました。

永遠の若大将!原辰徳が就任!新しい風が巨人に吹く

就任一年目にも関わらず巨人監督を辞任

2002年のキャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」を掲げ、鹿取義隆をヘッドコーチとして招聘させました。

2002年は、引退も考えていた桑田真澄の先発復帰、河原純一の抑え転向、清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い、就任1年目にしてリーグ優勝・日本一に導きました。

翌2003年は、前年まで不動の4番だった松井秀喜がMLBへ移籍したことや、相次ぐ主力選手の怪我による戦線離脱、前年好調だった投手陣が一転して不調に陥ったこともあり、3位に終わる。

当初は次シーズンも指揮を執ることが内定していたが、終盤で中日に抜かれ3位に転落したことに加え、球団代表・三山秀昭との確執もあり、辞任となりました。

ただ、優勝と3位での辞任もありファンからの批判が大きかったですね。

就任2年目は球団最低屈辱的だったが名監督へ

原辰徳が復帰するも2年連続Bクラス、4年連続V逸。

チーム打率.251は12球団最低と屈辱的な結果で2006年シーズンを終えると、オフにFAで小笠原道大(日本ハム)、トレードで谷佳知(オリックス)を補強する。

翌年、小笠原はセ・パ両リーグの受賞となる2年連続MVPの活躍で5年ぶりのリーグ優勝に貢献する。その年のストーブリーグにはアレックス・ラミレス(ヤクルト)を獲得します。

同時に坂本勇人、亀井善行、松本哲也、山口鉄也らの実績のない若手陣を次々と抜擢して、主力へと定着させV3を達成しました。

また、2012年からのリーグ優勝を支えたのは、阿部慎之助、村田修一、坂本勇人、長野久義といった、原監督が言うところの「枢軸」の4人の打者と、内海を筆頭にピッチャー陣が巨人をひっぱりこれも3連覇を残したのでした。

まとめ

長嶋茂雄監督、王貞治監督、藤田監督、堀内監督、そして原辰徳ですが、ファンの批判が大きい中で結果を残せば英雄、残さなければ評価を落とす。

それほど厳しい巨人の監督ですが、高橋由伸監督はどうなるのでしょうか。